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重蔵神社
じゅうぞうじんじゃ
石川県輪島市河井町4−96−甲

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式内社 能登國鳳至郡 鳳至比古神社 |
能登半島の輪島市にある。
輪島港の近く、河井町に鎮座。
輪島市の中心を流れる川の河口部から東へ500mほど。
249号線に面して境内は南向き。
鳥居をくぐると、駐車場になっており、石橋の奥が境内。
境内奥に社殿があるが、社殿の前には、
赤い鳥居の「要石」が置かれている。
「要石」のある神社として有名な神社は、鹿島神宮、香取神宮など。
伊賀の大村神社境内にも置かれているが、なにか関連があるのだろうか。
拝殿は大きな構え。本殿も間口三間と大きめだ。
舳倉島(へくらじま)へ向う船の待ち時間に、輪島市内を散策しながらの参拝。
これから乗る船の安全を祈った神社。
当社の社号「重蔵」は、「じゅうぞう」と読むが、
本来は、「へくら」と読むという説がある。
輪島の沖に浮かぶ、舳倉島の神を祀ったということらしい。
創祀年代は不詳。
社伝によれば、崇神天皇の御宇、
大彦命により、神田を寄進されたとあるほどの古社。
天平勝宝八年(756)五月、泰澄により寺院が建立された。
以後、神仏習合の社として、十蔵権現あるいは重蔵宮と称され、
七堂伽藍の立ち並ぶ、壮大な境内であったという。
主祭神は、天之冬衣命と大国主命。
配祀の神々が多いのは、明治に合祀されたもの。
五男三女神の神々は、八王子社と呼ばれた末社の神々。
住吉三神は、無格社・住吉神社の神。
その他、無格社・諏訪神社(建御名方神)、無格社・保食神社(豊受大神)、
末社・西宮神社(事代主命)、末社・日吉神社(大山咋神)が合祀された。
式内社・鳳至比古神社の論社の一つ。
鳳至比古神社の論社は多く、江戸時代には盛んに争論があったようだ。
また、一説には、当社は式内社・邊津比咩神社の論社でもある。
これは、上に記したように、重蔵を「へくら」と読み、
舳倉島の神・奥津比咩に対する社とするもの。
当社の特殊神事に如月祭(現在は三月)というものがあり、
「神に生贄として人身御供をした名残」どそうだ。
どんな祭なんだろう。
『平成祭データ』記載の五男三女神の中で、
多紀理姫命・市杵嶋姫命・田心姫命と宗像三女神らしき名があるが
宗像三女神としては多紀理姫命=田心姫命なので、組み合わせが不自然だ。
『明治神社誌料』には、田心姫命ではなく田心津姫命となっており
田寸津姫命のことだろう。
境内には幾つかの境内社がある。
境内左手には、金比羅社(大物主神)、秋葉社(加具土神 火産靈神 水波能賣神)。
秋葉社の横に、小さな白山社(菊理姫神)。
境内右手には、天満宮(菅原道眞)、稲荷社(稻荷大神)、子安社(稻田姫神)。
鳥居 ![]() | 参道 ![]() | 社殿前に要石 ![]() |
境内 |
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本殿 ![]() | 社殿 ![]() |
要石 ![]() | 子安社 ![]() |
稲荷社 ![]() | 天満宮 ![]() |
金比羅社 ![]() | 秋葉社と白山社 ![]() |
重蔵神社由緒略記
由緒大要社伝によれば、遠く崇神天皇の御代の鎮座とされ、「延喜式」の神名帳に載せられる鳳至比古神社、あるいは辺津比咩(へつひめ)神社にもあてられてきたのである。 もと、重蔵権現・十蔵大権現・重蔵宮とも称せられ、神仏習合した堂塔伽藍が建ちならび、多くの社人(現在、神人と称し五十余戸あり)社僧・衆徒の奉仕するところであった。 したがって古来、領主・藩主をはじめ衆庶の尊崇ただならず、中世には地頭の長谷部氏をはじめ、温井氏(畠山氏家臣)等が社殿を造営し、とくに本殿は明治三十九年特別保護建造物に指定せられたほどであった。 三間社流造、屋根柿葺で南面し、桁行十六尺二寸五分、梁間十四尺五寸、軒高一尺五寸四分、棟高二十二尺七寸七分という偉容を伝えていたが明治四十三年炎上、その後、旧にもとづいて再建されたのが現在の本殿ならびに拝殿である。 昭和二十九年輪島市々制実施を記念し、社務所(重蔵会舘)が建設されたなお社蔵にかかる木造菩薩面一面は明治三十三年国宝となり、昭和二十五年重要文化財に指定せられている。 次に当神社大事記により大要を記すと、天平勝宝八年五月両部習合となり、十蔵権現と称す(十輪地蔵為本地仏)。 延喜六年醍醐帝神鏡を御奉納。 養和元年二月長谷部信連祈願所と定め銅瓶武具及柱松明木を奉献する例を定める。 永仁四年十月地頭長谷部有連本殿再建、応永二年九月本殿修理遷座式あり。 応永十一年七月住僧等大般若経六百巻書写して献納する。 応仁三年正月大明神号を称することを許され、重倉大明神と称する。 文明八年六月地頭温井備中守俊宗、同神保式部尉光保講堂建立。 同十三年七月鳳至郡山田郷に当社を勧請する(今倉神社)。 大永四年五月温井備中守孝宗拝殿を建立する。 亨禄四年六月神輿再興。 天正八年六月前田利家入国、同十年武具及柱松明木奉献、(爾後明治維新に至るまで、前田家の恒例として松明木を献ず)宝永二年六月神社四囲石垣三十六箇村より寄進築造、同七年六月藩公より白銀二枚賜う。 天和三年及び天明二年の両度、社号争論があり、文政八年十月に至って止む。 爾来重蔵宮と称せられたが後に重蔵神社と称する。 明治五年九月郷社に列し、同三十三年四月菩薩国宝に指定、修理保存金を下附せられた。 同三十六年十月基本財産田七町七畝歩余造成。 同三十九年四月(永仁四年建造)国宝建造物に指定、同年十二月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。 同四十三年四月十六日社殿類焼。 同年五月本県下より壱万円、輪島町より五千円再建費の寄進あり。 同四十四年十一月本殿竣成。 大正元年十一月拝殿竣成。 大正五年十月宝蔵、摂末社等再建完成。 同七年五月境内拡張。 同年十二月県社に昇格す。 同九年八月神輿再興。 同十年六月権与二千年祭を執行す。 同昇格祭並二千年祭に県知事並前田侯爵・長男爵より祭祀料奉献して代参参向。 同十三年十一月宮内省へ新嘗祭供御米を献ず。 昭和三年八月御大礼記念として境内外廓玉垣並に有職塀を建設す。 昭和三十一年社務所(重蔵会舘)建設。 同三十二年更衣所、同四十二年控所を増築す。 −『平成祭データ』− |
