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諏訪大社 上社 本宮
すわたいしゃ かみしゃ ほんみや
長野県諏訪市大字中洲宮山1
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式内社 信濃國諏方郡 南方刀美神社二座 名神大 |
諏訪湖の南、茅野駅の西にある。守屋山の北麓。
参道は、東西と北にある。東西の参道には鳥居。
参拝順路は、どの参道から入っても、一度東の参道入り口へ行き、
屋根つきの廊下(布橋)を西へ進み、入口門をくぐって、東へ戻り拝殿。
神体守屋山は南にあるが、東に向かって拝することになる。本殿はない。
東には、「大祝」の神殿・前宮があるが、そちらを向くということか。
江戸時代は、守屋山に向かって拝していたようで、『画詞』によると、
三段に分かれており、上段に尊神の御在所、鳥居格子のみ、
中段に宝殿、下段に拝殿・回廊があり魚肉を供していたようだ。
現在でも四脚門の左右に東西に宝殿があるが、
こちらが社の中心で、その向うに上段(現在は拝殿がある)があり、
拝殿は、下段にあった。
諏訪大社は、上社・下社に分かれており、本来、
上社に建御名方神、下社に八坂刀賣神を祀っている。
また、上社には本宮と前宮、下社には秋宮と春宮があり、
四社を総称して諏訪大社という。
上社の神事として、特徴的なものに、六年に一度の御柱祭と
蛙狩神事・御頭祭がある。
蛙狩神事とは、本宮前に御手洗川の氷を割って蛙二匹を捕らえ
柳の弓、篠竹の矢で射抜き、矢に串刺ししたまま神前に贄とするもの。
諏訪の信仰は、多くの贄を必要とする。
御柱祭は、全国的に有名だ。正式には「式年造営」といい、
今日では「式年造営御柱大祭」と呼ばれている。
寅年と申年(つまり六年に一度)行われ、古くは宝殿などの
造営が主であったが、現在は御柱を立てることが主である。
この式年造営の年は、『物忌令』が出され、葬儀等は穢れとして禁止される。
また、私的に費用のかかる婚儀なども遠慮しなければならない。
御柱は、本殿・神体に向かって、
右前が第一、左前が第二、左後が第三、右後が第四である。
柱状のものに神が依りつくという信仰は各地にある。
一本ならわかるが、四本というのは不思議だ。
どう見ても、結界にしか見えないのだが。
封じ込める結界か、外敵から守護する結界か。
柱といえば、竜巻からの連想で「風の神」。
諏訪の神も、「風の神」「風伯」として竜田の風神とともに祀られている。
また、水内に「健御名方富命彦神別神社」があるが、こちらは「水」であり、
両社あわせて、「風雨」に相当。大和の竜田と広瀬にあてはめる見方もある。
御柱の見立てに用いる「薙鎌」の「なぎ」は、夕凪の「なぎ」であり、
また、蛇(ナーガ)でもある。甲賀三郎伝説にあるように、諏訪明神は
蛇神ととらえる信仰もある。蛇は蛟(みずち)であり、「水内(みのち)」の
「健御名方富命彦神別神社」は、この蛟であるとする。
『神道集』に、「諏訪大明神の秋山祭の事」として、以下の話がある。
桓武天皇の御代、奥州に悪事の高丸(悪路王あるいは安部高丸)がおり、
人民を苦しめていた。そこで、坂上田村丸がその討伐に出かける。
田村丸は清水寺に詣で、願をかけると、「山道を行け」という啓示を受ける。
教えの通り、山道を進み、信濃を通りかかると、梶の葉の紋様をつけた武者、
藍染の紋様をつけた武者と遭遇する。
高丸の居城に到着し、戦闘を行うが、田村丸は苦戦する。
そこへ、信濃で出会った二武者が現れ、助勢する。
見事、高丸を討ち取り、都へ凱旋する途上、信濃に到着した所、梶の葉の武者は、
「我は諏訪の明神である。清水観音の指示によりお供した。」
「我は、狩猟を好むので、狩の祭を希望する。」
と言う。それに対し、田村丸は
「どうして菩薩でありながら、殺生を好むのでしょう。」
と問うと、次のように答える。
「我は、殺生を生業とするものに利益を施す。また、
有情の畜生は、神前の贄として成仏がかなうのだ。」
このようにして、諏訪の秋山の祭が行われた。
この日は、きっと大雨大風が起る。
なぜなら、十悪の高丸が滅んだことにより、国内が騒動し、
畜生の成仏により、神仏が感動するためである。
ちなみに、もう一人、藍染紋様の武者は、
「王城鎮護の住吉の大明神」であった。
さて、高丸の娘は、その時、諏訪大明神によって捕らえられていたが、
身篭っており、一人の王子を産んだ、明神は憐憫をもって、
「自分には姿がないから自分の代わりに、神姓をあたえ祝とする。」
これが、大祝の始めである。
拝殿は、左右に片拝殿とよばれる、両翼条に建物が付属している。
「諏訪造」と呼ばれる形式で、諏訪地方に多い。
諏訪大社の御神紋は諏訪梶。
上社が四本足で、下社が五本足。
東参道の鳥居 | 西参道の鳥居 |
正面鳥居 | 明神湯(温泉) |
北参道正面境内と堀重門 |
参拝所 | 拝殿 |
社殿(平成二十三年撮影) |
境内の四方に御柱が建てられている。
以下の御柱は、最初に参拝した平成十二年当時のもの。
一之御柱 | 二之御柱 | 三之御柱 | 四之御柱 |
樹齢200年程の樅の巨木・御柱は
七年目毎(六年に一度)、寅と申の年に立て替えられる。
平成二十二年(寅年)に新しく立て替えられた御柱を見て来た。
一之御柱 | 二之御柱 | 三之御柱 | 四之御柱 |
諏訪大社 旧官幣大社(現、別表 神社)。当社は上社と下社があり、上社に 本宮と前宮、下社に春宮と秋宮とがある。 これに六〇余の境内、境外の摂末社がある。 上社と下社は諏訪湖をはさんで鎮座す る、神氏の奉斎にかかるわが国有数の古 社である。上社の前宮は、本宮の前身と考 えられ、下社の場合、一月一日より七月末 まで祭神を春宮に奉斎、八月一日、遷座祭 を行い、一二月末まで秋宮で奉斎する。上 社本宮・前宮・下社春宮・秋宮ともに、四 隅に自然木の柱を立て、この中を、最も清 浄な神地としているが、この柱は、申・ 寅の年、つまり七年ごとに建替えられる。 この祭事は御柱祭といわれ、上社の御頭 祭(四月一五日)、下社の遷座祭とともに重 要な祭儀とされている。古来、当社は、諏 訪大明神・諏訪南宮大明神・諏訪南宮正一 位法性大明神などと称された。また、全国 いたる所に分社が奉斎され、その数は一万 社を超える。孝徳天皇八年(六五二)一二月、 信濃国諏訪郡南方刀美神社に勅使が遣わさ れて、綿一○○把が奉献され、持統天皇五 年(六九一)八月にも勅使が遣わされた。大宝 三年(七○三)には祈年の奉幣に預かり、承和 九年(八四二)五月、信濃国諏訪郡无位勲八 等南方刀美神に従五位下が授げられ、貞観 九年(八六七)三月従一位、天慶三年(九四〇) 正一位に叙せられた。神領は、貞観七年 (八六五)七月信濃国諏訪郡の水田二段が、神 社田に加えられ、延暦二○年(八〇一)二月、 諏訪郡田畠山野各一○○○町、稲八万四○ ○○束を以て、当社年中の祭祀に充てられ、 大同元年(八〇六)本国封七戸が寄せられた。 『延喜式神名帳』に「南方刀美神社二座」 とあり、名神大社に列し、祈年の班幣に預 かった。また信濃国一の宮として、信濃国 はもとより、全国至る所に分社が奉斎され、 幅広い崇敬が寄せられた。当社の祭神、建御名方神は、建御名方富命、または南方刀 美神ともいわれ、大己貴命(大国主命)の御 子神にあたる。御母神は、高志沼河姫命。 御兄神に事代主神がある。八坂刀売神は、 建御名方神の妃神で、御子神が一三柱ある。 鎌倉時代以降、特に武門武将の崇敬篤く、 社領の寄進が多くあり、武田信玄・勝頼父 子は、祭祀を復興、社殿の造営を行った。 徳川幕府は、慶安元年(一六四八)以降上社に 一○○○石、下社五○○石の朱印を奉献、 諏訪藩に於ても、社領の寄進が行われ、明 治に至った。明治四年(一八七一)五月一四日、 国幣中社に列せられ、同二九年四月一四日 官幣中社、大正五年(一九一六)一二月一二日、 官幣大社に列せられた。例祭上社四月一五 日、下社八月一日。 −『神社辞典』− |
境内は下図の通り。参拝は東から周り、西面する拝殿で行う。(赤矢印)
昔は、現拝殿場所が上段、四脚門左右の宝殿が中段、
神楽殿あたりに拝殿があったようで、黄矢印の方向に参拝していたようだ。
二之御柱そばの出早社 出早雄命 御子神で門神 | 東参道途中にある 大国主社 | 社務所近くの 高島神社 |
東参道 |
摂末社遥拝所 | 神楽殿 |
四脚門 | 宝物殿 |
硯石 |
諏訪大社には、「七石」「七木」「七不思議」といわれるものがあり、自然崇拝を示している。 七石
七木
「七木湛」ともいわれ、これらの木の下で湛神事が行われた。
上社七不思議
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