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赤城神社
あかぎじんじゃ
群馬県前橋市富士見町赤城山4-2
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式内社 上野國勢多郡 赤城神社 名神大 |
赤城山の山頂、大沼の東岸に浮かぶ小島・小鳥ケ島に鎮座。
赤城山山頂は、大沼の周りに、王冠状に幾つかの山々が連なっている。
車道から、神社への案内に従って進むと、
駐車場があり、そこに車を停め、
赤い橋を渡って、小鳥ケ島へ渡る。
島の正面、大沼の対岸には、頂上までロープウェイのある地蔵岳が見える。
石鳥居の奥が境内。赤い社殿と本殿がある。
昭和40年に、現在地・小鳥ケ島へ遷座されたが、
それ以前は、大沼の南畔・大洞に鎮座していた。
大洞とは、大同元年に造営されたことによる名前らしい。
『神道集』に、赤城大明神に関して幾つかの説話が記載されている。
上野国に流されていた高野辺の大将家成には、
三人の娘と一人の息子がいた。
息子は、母方の祖父を頼って、都へ上り仕官していた。
大将の奥方が亡くなり、信濃から後妻を迎えた。
罪を許された大将は、上野国司に任命され、任地へ向かう。
三人の娘は、それぞれの乳母の元で成長。
継母は、三人の娘を疎ましく思い、殺害を計画。
弟の更科次郎兼光をそそのかす。
兼光は、まず姉姫である淵名姫を、淵に沈めて殺してしまう。
次女の赤城姫は、赤城山に逃げ込み、赤城の沼の龍神に助けられ、
その後を継いで、赤城大明神となる。
末の伊香保姫は、伊香保太夫の居城に護られる。
事件を知った、大将家成は、慌てて戻り、
淵名姫の無くなった淵で、神となった淵名姫と再会。
その後、淵に入水してしまう。
都で出世していた息子は、軍勢を率いて戻り、兼光を殺し、
継母らを捕らえるが、仮にも一時は母であったという理由で、
殺さずに、継母の出身地・信濃へ追放する。
信濃へ戻った継母は、甥を頼るが、甥に捨てられ死んでしまう。
この、甥が叔母である継母を捨てた山が、姥捨山。
事件を収拾させた息子は、淵名姫の死んだ淵に社を立てる。
また、大沼の畔で、一羽の鴨の羽に乗った、
神となった淵名姫と赤城姫と再会。
その鴨が、大沼に留まり、島となったのが、現在地である小鳥ケ島。
その後、社を立てて祭り、小沼の近くに三日間滞在。
その地を、三夜沢という。
さて、赤城姫以前に、赤城の神であった、赤城の沼の龍神の名は、
(おんさらまにょ)と言うが、
赤城山大神がムカデとなり、二荒山大神が蛇となって戦った神戦で、
二荒山大神の加勢をして、弓で赤城山大神を討ったのは、小野猿丸という。
小鳥ケ島へ渡る橋 | 境内入口 |
鳥居から大沼の対岸に地蔵岳 |
境内 |
拝殿 | 拝殿 |
本殿 | 本殿 |
赤城神社由緒記
上毛三山の雄赤城山は標高一八二八メートル関東平野
北部に君臨する最初の霊峰である東西に長く裾を引く
気品ある山容は古代神霊の宿る山として崇められたの
も故なしとしない山頂の大沼小沼は千古の神秘を湛え
全山原始の面影をとどめ幾多の信仰と伝説を秘めてき
た一方遠く万葉の歌人に詠まれてから今日まで幾多知
名人の文筆と彩管によって天下に紹介されてきた誇り
高き山である 古代の自然神は赤城大明神と沼神の赤
沼大神として祀られたと考えられる第十代崇神天皇第一皇子豊城入彦命が東国経営の大任を帯びて上野国に
移られた時すでに山と沼の霊を奉斎したと伝えられ更
に允恭用明両天皇の御宇社殿を創設し平城天皇大同元
年に山頂大洞に神域を定めて遷座奉斎すると伝えられ
る 尓来朝野の崇敬を受け戦国時代の前橋城主をはじ
め天正十八年の平岩氏慶長六年の酒井氏寛延二年の松
平氏とそれぞれ崇敬し特に後に幕閣の大老職に就いた
酒井雅楽頭忠清は寛永十八年三月山火事によって類焼
した社殿を新造営し併せて神田を寄進し松平氏もまた
毎年祭粢料を献し奉幣使を派遣するを例とした 江戸
時代に徳川家康公を合祀し大洞の赤城神社として山麓
諸村の信仰によって守られ 明治時代に入り赤城山が
観光客を迎えるようになると一層有名になったが社殿
が頽廃したため昭和四十年新たに神域を小鳥ケ島に移
す議が起こり昭和四十五年旧社地大沼南畔の大洞より
現在地に奉遷したことは碑陰の遷宮の記に記した通り
である
−境内案内板より− 所謂上毛三名山中、最も雄大にして極めて幽邃千景万趣、超、凡脱俗人をして自ら霊化するを覚えざらしむるもの赤城山とす。山は勢多郡北嶺の総称にして利根郡の陽を蔽い、海抜一八二〇メートル、山頂は黒桧山(当山中最高)神庫岳(地蔵岳と呼ぶ。大神の神宝を納めし所)荒山、鍋割山、鈴ケ岳(以上をあかぎ五峰という)等数峰に分れ、その中央に大湖あり。旧噴火口にして澄碧の水、万古の神秘を湛えて万象をうるおす。赤城湖(大沼、一名くずはだか又は石垣沼ともいう)と言う。湖東一小島あり。原始的樹木繁茂し苑然湖中に浮べるが如し。小鳥ケ島と(赤城神社所有)名づく。元神社は湖の南畔に鎮座し、神苑には老樹うっそうとして千歳の翠滴り、現在飛地境内地なり。三百五十有余年を経て社殿荒廃につき、昭和四十五年七月、小鳥ケ島に改築す。 赤城大神は上古より当国に鎮まります。創始は上古即ち崇神天皇(人皇第十代紀元五六四年)の御宇、皇子豊城入彦命、毛野国に入るや天神地祇をまつり尚国土経営主神大国主命を奉斎し東国の経営を祈り、また疫病絶滅祈願のため初めて此の山に勧請し給う。元の社殿は、平城天皇の御宇即ち大同元年の造営なり。(人皇五十一代紀元一四六六年) 赤城湖は元慶四年、上野国赤城沼神として信仰せられ、特に従四位上授かる。また宝暦十三年正月九日、正一位を授かる。(三代実録記載による)爾来、大沼、小沼は赤城神社の神領にして、群馬県庁永年保存公簿、明治十年、群馬県庁地理課調査社事境内取調帳(抜粋)によると、大沼一一四丁一反六畝三十歩、小沼三十四丁三反二畝一歩とあり、沼神として実に信仰偉大なるものあり。 是より遥か後、天文の頃剣術諸流の祖、上泉伊勢守秀綱、大神を信仰し妙術を得たり。徳川時代に至り特に幕府は前橋城主に営繕を命じ、笠間明玄、長野、長尾謙忠、平岩氏、酒井氏、松平氏相次いで前橋城主となり、代々崇敬厚く、中でも三代徳川家光公は藩主酒井河内守重忠公に社殿営繕仰せつけ、また酒井雅楽頭忠世赤城山御願御成就上、社頭不残又御建立仰付。酒井雅楽頭御代寛永十八年巳三月、一山を炎焼仕侯に付き社頭不残御建立旨仰付侯、御番人差置侯事「姫陽秘鑑」(姫路酒井藩の記録)中「神祇」の項による。 先の酒井雅楽頭忠世上田三反三畝十八歩寄進す。また、重臣川合勘解左衛門は寛永十一年六月、同川合左近は明暦三年六月に各鉄弓を奉納す。また城主歴代、毎年米二十包献り、大祭には城主自ら奉幣せられ、尚また水千病災等に際しては、五穀豊熟、無病息災の祈願の執行を例とす。 かかる故、当国は言をまたず、近国に至るまで衆庶の崇敬深甚にして上野国大鎮守と称え奉り、其の信徒は五百二十余村に亘れり。登山口八か所の鳥居も当時の信者の奉納なり。当神社の分社は各地にあり、中でも文明年中城主笠間明玄氏厩橋城築城の際、城の未申方分社建設これを敬奉し、その他各地に有り。 以来明治維新廃藩に及び、各社請願により合併す。明治二十年より明治四十三年の間に近郷の八か村二十二神社末社九十八柱合併す。 元の社殿、本殿、幣殿、楽殿、長屋門、末社五社、厳島神社(小鳥ケ島)弁天社以上の建物は寛永十九年、前橋城主酒井雅楽頭忠清公再建のものなり。昭和四十五年七月、社殿荒廃につき、元の社殿跡小鳥ケ島に改築する。 旧四月八日(卯月八日)現在五月八日、例祭並びに赤城山山開き祭りが行われる。山頂黒桧山、神庫山、荒山、鍋割山、鈴ケ岳に向かい神社より山清の御使者が登り、登山者、山の無事安泰とその年の天災除けを祈り下山する。 八月八日には例夏大祭として大沼神を奉斎の神事として沼神に神饌を奉り、湖上には数百の灯篭流しや、盛んな行事が行われる。また、元の神社殿より御神幸の行事が執り行われる。特に無病息災、五穀豊穣祈願の行事が行われる。婦人の祈願があり、成就には緋鯉を数尾沼神に供える県下でも珍しい神事がある。 −『平成祭データ』− |