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王城鎮護・大将軍神社2
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桓武天皇の平安遷都の始め、王城(京都)鎮護を目的に、京の四隅に『大将軍』を祀った。
前回は、「大将軍」とは何かということを少し調べた。


・大将軍=陰陽道において、四方(方位)を司る神
・太白(金星)
・牛頭天王の子魔王天王
・日本では、牛頭天王と同様に素盞鳴尊とされる




が大将軍神社の位置。
大将軍八神社
今宮神社境内大将軍社西賀茂大将軍はもっと北なのでとりあえず割愛。
東三条茂大将軍ではなく、従来あったとされる岡崎。
藤森神社境内大将軍社

ここで、ちょっと気になる事、それは、大将軍神社の位置だ。資料では京の四隅とあるが、その位置はどう見ても四隅ではない。平安京のような碁盤状の都市にしては、形が歪。

この4ポイントを用いて、少し遊んでみる。

1.を用いた四隅。
平安京の北東(鬼門)にずれた方形になる。この場合、もう一つは、になくてはならない。
その場所には、下鴨神社がある。下鴨神社には末社が多いので、その中に、「大将軍」の匂いを探す。 大将軍は見つからない(当然)が、素盞鳴尊を祀る出雲井於神社(式内社)がある。ただ、素盞鳴尊を祀る神社は無数にあるので、これだけでは判断不能。ただ言えるのは、この位置に此れほどの神社が存在するということだ。京都だからどこにでも社寺は存在するが、重要度においては申し分がない。
さらに、下鴨神社参道は、「糺(ただす)の森」といわれているが、素盞鳴尊はその疫神の性格上、一名「糺す神」ともいう。ここはそういう場所である。


2.を用いた四隅。
平安京の南東にずれた方形になる。この場合、もう一つは、になくてはならない。
その場所には、城南宮があり、ここも方除けの神である。
南東にずれてはいるが、そのスケールはほぼ平安京に相当する。平安京の四隅という表現にピッタリなのだ。
また、縦のラインがそれぞれ、西大路・東大路とい点も注目される。
実は、すでに、ここを大将軍とする説があるらしい。

おまけ.を用いた四隅。大将軍は陰陽道の神だ。となれば、晴明神社を加えるとどうなるのか。
この2ポイントを含む方形を探す。から西大路を南へ大将軍の匂いを探す。
の位置、梅小路に稲住神社がある。安倍晴明を祭神とする神社だ。その境内に「魔王尊」が祀られている。
魔王といえば、牛頭天王の子で、大将軍とされている神である。3ポイント目はここに確定。
因みに「魔王尊」としては、鞍馬寺奥の院の護法魔王尊が有名だが、この魔王尊は650万年前に金星からやってきたという。金星=太白=大将軍だ。
次に4ポイント目は、自動的にになる。が、ここは京都駅前だ。まさか下京区役所が陰陽道に関連するはずもない。周辺には本願寺、東寺などがある。東寺の正式名は教王護国寺、平安遷都に伴い造営されたものだから、資格は十分だが、真言宗総本山だから大将軍とは関係なさそうだ。

魔王尊は、一般に祀られているのだろうか。魔王尊の分布を検討すれば、もう少し解明できるかもしれない。
また、東三条大将軍の由緒には、王城鎮護のため、四隅に大将軍、四方に天王を祀ったとある。東方の天王は八坂神社だろう。では西南北の天王とはどこだろう。



2000.2.1 追加。
2.城南宮の位置は、正確には、西大路の延長線より東へずれている。西大路を延長した位置には下水処理場。

おまけ.地図で確認した結果、稲住神社から東、晴明神社から南の交点(南不動堂町)には道祖神社がある。祭神はサルタヒコか、クナドか、ヤチマタか。未確認。

2000.2.4 追加。
王城鎮護のため、四隅に大将軍、四方に天王を祀ったとある。東方の天王は八坂神社だろう。
と書いたが、鞍馬寺を調べていて、気づいたこと。鞍馬寺は毘沙門を祀っているらしい。毘沙門とは多門天のことで、北方を守る四天王。そうです、四方に天王を祀った天王とは四天王のことではないだろうか。
ちなみに、「地蔵、買うた?」で有名な四天王とは、
 東:持国天(こくてん)
 南:増長天(ぞうちょうてん)
 西:広目天(こうもくてん)
 北:多門天(もんてん)
北の天王が鞍馬(多門=毘沙門)なら、さて東南西は?

2003.11.7 追加。
 東天王社に関して、岡崎神社であることが判明しました。
 岡崎神社(おかざきじんじゃ)
 通称 東天王(ひがしてんのう)
 住所 京都府京都市左京区岡崎東天王町51
 祭神 素戔嗚尊 (配祀)奇稻田媛命 五男三女八柱神
 由緒
 社伝に桓武天皇延暦十三年(七九四年)平安京御遷都のみぎり王城鎮護のため平安京の四方に建立せられた社の一つで、都の東にあたるところから東天王と称した。
 その後社殿が炎上したため清和天皇貞観十一年(八六九年)社殿を造営し、あらためて播磨の国広峰(現在の兵庫県姫路市の北方)から上記の御祭神を迎え祀った。諸社根元記に祇園牛頭天王は播州広峯より、北白河東光寺に移されたと記されてあり、この東光寺即ち東天王であって八坂神社の創祀と関係が深い。
 また、平家物語にもこの東光寺を官幣四十一所の神社の内に加えている。
 のちに後醍醐天皇が当社を御再建になり以来室町時代には将軍足利義政等より修造があり幕府との関係も深い。
 古くから産土神として附近の氏子、崇敬者の信仰を集めていたが、殊に治承二年(一一七八年)中宮の御産の奉幣を賜ったことから安産の神として信仰せられ、現在に至るまで毎年十月の氏子祭には神輿にうこんや錦の帯を巻いて奉じ安産を祈願する信仰がある。
 亦往時の王城鎮護方除の勅願により今以って方除厄除神としての信仰者が絶えない。
 例祭は七月十六日に行われる。
 氏子祭は十月十六日で、この日行列を整えて氏子町々へ神幸があり、旧二条城にあったと伝えられる、直径六尺(約一・八メ−トル)もある大櫓太鼓を先頭に十一基の振鉾を連ね神輿の渡御が行われる。この振鉾のうち特に犬鷹鉾は平安時代の姿を伝える名鉾として大舎人の鵲鉾、山崎の定鉾と共に有名である。
 近年本殿東側のみどりの山中に荘厳且つ近代的な他に類例のない豪華な儀式殿(鶴泉苑)が完成し、年々数百組に及ぶ婚儀が挙げられ隣接のホテルサンフラワ−京都で、華やかな披露宴も行われる。
 境内には全国にも珍しい雨ノ社があり、竜神さんとも呼ばれ元如意ケ嶽(大文字山)の山中にあった祠で雨乞の神また進学の神として崇敬せられている験しの著しい御社があり、そばに竜の池と竜泉苑と称する庭園を見ることができる。


【 王城鎮護・大将軍神社2:玄松子の雑記帳 】

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2000.1.29,2.4追加
2000.1.27,29修正