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平将門魔方陣 「将門は神になれたか」 |
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加門七海の著書『将門は神になれたか』(文庫版は『平将門魔方陣』)に、
東京23区内にある平将門ゆかりの寺社の配置が北斗七星ラインを構成しており、
天海による呪的魔方陣ではないかと指摘されている。妙見(北斗七星)の守護により新皇に昇りつめ、
妙見の守護を失って破滅する平将門に、北斗七星は相応しい魔方陣だ。
その真偽は確認できないが、神社巡りの題材としては興味深いので、 改めて個々の神社を参拝し直したので、以下に紹介する。
『将門は神になれたか』では、上記11の寺・神社・首塚の内、
さらに、北斗七星の柄杓側には将門頭部が、柄には将門胴部が配置され、 将門調伏の水稲荷神社で分断されているとも。
また、道教では北斗七星と輔星、弼星と併せ北斗九星と考えられ、 鬼王神社は輔星の位置にある摩多羅神ではないかとも記されている。
Google Earthよりキャプチャし、輔星、弼星を追加。輔星の位置は実際はミザールにもっと近い
あるいは、以下の可能性を考えると面白いかもしれない。
加門七海の『将門は神になれたか』はエンターテイメントであるから平将門関連として上記の寺社のみが紹介されているが、 東京には幾つかの神社の由緒の中に平将門が登場する。
以下に、その一部を紹介する。探せば、平将門関連の伝承を持つ神社は他にもあるだろう。 興味のある方は、地図を片手に探してみると、思わぬラインが見つかるかもしれない。
その真偽は確認できないが、神社巡りの題材としては興味深いので、 改めて個々の神社を参拝し直したので、以下に紹介する。
『将門は神になれたか』では、上記11の寺・神社・首塚の内、
・神田山日輪寺は将門を供養した僧侶の寺であることから除外し、9つの神社・首塚の位置を見ると、7つの位置が北斗七星を形成しているという。
・築土神社は旧社地である筑土八幡神社と合わせて
さらに、北斗七星の柄杓側には将門頭部が、柄には将門胴部が配置され、 将門調伏の水稲荷神社で分断されているとも。
また、道教では北斗七星と輔星、弼星と併せ北斗九星と考えられ、 鬼王神社は輔星の位置にある摩多羅神ではないかとも記されている。
Google Earthよりキャプチャし、輔星、弼星を追加。輔星の位置は実際はミザールにもっと近い
あるいは、以下の可能性を考えると面白いかもしれない。
・烏森神社は、おおぐま座 χUMa を意味してるのかもしれない。(上の天体図参照)
・北斗七星ライン上の七社と鬼王神社・烏森神社を合わせて北斗九星を表しているのか。
・水稲荷神社ではなく鬼王神社が北斗七星ラインに乗り、水稲荷神社−烏森神社の将門調伏の稲荷ラインで分断されているとも考えられるだろ。(下図参照、ちなみに烏森神社は烏森稲荷と称していた) この調伏ラインが中央線とクロスしていることも何かの象徴と思えるのだが。
・また、将門調伏ライン近くの鬼王神社には、鬼を切った鬼切丸という刀が奉納されていたらしい。将門を祀りながら将門を切る機能があるのか。ちなみに鬼王神社は稲荷鬼王神社と称している。
・下落合の稲荷神社の由緒に、平将門を守護し仕えていた白狐三匹が将門を見限り、平将門は俵藤太に首を取られたとあり、 平将門は妙見菩薩を信仰して新皇に昇りつめ、妙見菩薩に見限られて滅んだとも伝えられている。妙見菩薩=白狐三匹の稲荷神という図式があるのかもしれない。
① | 頭部 | 鳥越神社 | 東京都台東区鳥越2-4-1 |
日本武尊・天児屋根命・徳川家康公を祀る。 白雉二年(651)の創建。景行天皇の皇子・日本武尊が東夷征伐の時に鳥越の里に留まり悪者を退治したことにより白鳥明神として祀ったという。 一説には、京都で晒されていた将門の首が当地を「飛び越えた」ことから鳥越となったとも。 | |||
② | 頭部 | 兜神社 | 東京都中央区日本橋兜町1-12 |
倉稲魂命・大国主神・事代主命を祀る。 明治十一年、東京株式取引所(東京証券取引所)の設置にともない、鎮守として祀られた。 境内に安置されている兜岩は、前九年の役の時、源義家東征のおりにこの岩に兜を懸けて戦勝祈願したと伝えられ、兜町という地名の由来となった。 神社創建は明治になってからだが、江戸時代から兜塚と称する塚があったらしい。 一説には藤原秀郷(俵藤太)が平将門の兜を埋めた場所だという。 | |||
③ | 頭部 | 将門首塚 | 東京都千代田区大手町1 |
天慶の乱において藤原秀郷(俵藤太)に討たれて憤死した平将門の首は京都に送られ獄門に架けられたが、
三日後、白光を放って東方へ飛び去り、当地、武蔵国豊島郡芝崎に落ちて来たという。
村人はこれを恐怖して塚を築いて祀ったが、後にもしばしば祟りがあり、
徳治二年(1307)、時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、
塚前に板卒塔婆を立てて日輪寺に供養し、かたわらの神田明神に将門の霊を合わせ祀った。 まさしく将門の頭の中心地だ。 | |||
④ | 頭部 | 神田明神 | 東京都千代田区外神田2-16-2 |
大己貴命・少彦名命・平将門公を祀る。 天平二年(730)、武蔵国豊島郡芝崎の浜(上記将門の首塚近く)に出雲氏、真神田臣によって創建され、当時の祭神は大己貴命一柱。 延慶二年(1309)、時宗二祖真教上人により将門の霊を合祀。元和二年(1616)、徳川秀忠によって現在地へ遷座し江戸総鎮守となった。 将門首塚の地から遷された将門の頭部に関る神社。頭部の抑えとしての機能を期待されたのだろうか。 | |||
⑤ | 調伏 | 烏森神社 | 東京都港区新橋2-15-5 |
倉稲魂命・天鈿女命・瓊々杵尊を祀る。 天慶三年(940)平将門が東国で反乱を起こした時、征討将軍藤原秀郷(俵藤太)が当社にて戦勝祈願をしたとも、このときに勧請されたともと伝えられる。 まさしく平将門調伏のための神社。 | |||
⑥ | 頭部 | 筑土八幡神社 | 東京都新宿区筑土八幡町2-1 |
応神天皇・神功皇后・仲哀天皇を祀る。 嵯峨天皇の御代、武蔵国豊島郡牛込の里に熱心に八幡を信仰する翁がおり、夢の中で八幡が出現。目覚めてみると松の樹上に旗のような雲がたなびき、雲の中から鳩が現れた。その松を祀ったことが起源。 当社境内の西には津久戸明神と称された平将門公を祀る神社があったが、昭和の戦災により焼失し、 昭和二十一年(1946)千代田区富士見へ、さらに昭和二十九年(1954)九段中坂へ遷座し築土神社となっている。現在、津久戸明神の跡地にはキリスト教関連の建物がある。これは戦後の資金調達のために土地が売却されたためらしい。 この津久戸明神は、平将門の首を祀った神社であると伝えられている。また、筑土八幡神社にも将門が合祀されているとい説もある。 | |||
⑦ | 頭部 | 築土神社 | 東京都千代田区九段北1-14-21 |
天津彦火邇々杵尊・平将門公・菅原道真公を祀る。 元社地は、上記筑土八幡神社の西横。天慶三年(940)藤原秀郷(俵藤太)に討たれて憤死した平将門の首が、 密かに京都より持ち去られ、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現大手町周辺)の観音堂に祀られて津久戸明神と称したのが始まり。 江戸城築城の後、文明十年(1478)、太田道灌が江戸城の乾)に遷座して江戸城の鎮守神としたという。 その後、家康入城に際し天正七年(1579)田安郷へ遷座、さらに元和二年(1616)江戸城外堀普請により筑土八幡神社の隣りに遷座された。 昭和の戦災で焼失したため、昭和二十一年(1946)千代田区富士見へ、さらに昭和二十九年(1954)九段中坂へ遷座した。 つまり、当社が江戸になって筑土八幡神社の位置に動かされ、北斗七星が完成したということだろうか。 | |||
⑧ | 調伏 | 水稲荷神社 | 東京都新宿区西早稲田3-5-43 |
倉稲魂大神・大宮女大神・佐田彦大神を祀る。 天慶四年(941)藤原秀郷(俵藤太)によって、現社地の南方300mの富塚の上に稲荷神社が勧請され、冨塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれていた。 当社は天慶の頃、俵藤太によって勧請されたことから平将門調伏の神社と考えられる。また、一説に当社稲荷神の神託によって源経基が平将門の謀反を朝廷に誣告したとも。 | |||
⑨ | 鎮魂 | 稲荷鬼王神社 | 東京都新宿区歌舞伎町2-17-5 |
稲荷神社と鬼王神社を合わせ祀った神社で、宇賀能御魂命・月夜見命・大物主命・天手力男命を祀る。 稲荷神社は、承応二年(1653)将軍家綱の頃、当所の氏神として稲荷大明神を勧請された。 鬼王神社は、宝暦二年(1753)当所百姓田中清右衛門が紀州熊野から勧請した。 一説には平将門の霊を祀り、鬼王とは将門の幼名「鬼王丸」に由来するとも。鬼を切った鬼切丸という宝刀があったらしい。 | |||
⑩ | 胴部 | 鎧神社 | 東京都新宿区北新宿3-16-18 |
日本武尊・大己貴命・少彦名命・平将門公を祀る。 日本武尊東征のみぎり、甲冑六具を当地に埋めたことにより創祀された。 天慶三年(940)平将門公下総猿島で亡ぶにおよび、土俗これを追慕して天暦のはじめ、将門公の鎧もここに埋めたと伝えられ、 また、藤原秀郷(俵藤太)が病を得て円照寺薬師如来に参詣し、将門の祟りを恐れて鎧を埋めたとも伝えられる。 将門の鎧を埋められたとも伝えられる神社。胴部の抑えか。 | |||
加門七海の『将門は神になれたか』はエンターテイメントであるから平将門関連として上記の寺社のみが紹介されているが、 東京には幾つかの神社の由緒の中に平将門が登場する。
以下に、その一部を紹介する。探せば、平将門関連の伝承を持つ神社は他にもあるだろう。 興味のある方は、地図を片手に探してみると、思わぬラインが見つかるかもしれない。
椙森神社 | 東京都中央区日本橋堀留町1-10-2 | ||
天慶三年(940)藤原秀郷(俵藤太)が平将門を追討せんと当社にて戦勝を祈願。 | |||
下谷神社 | 東京都台東区東上野3-29-8 | ||
天慶三年(940)藤原秀郷(俵藤太)が相馬に向かう時、平将門を追討せんと当社にて戦勝を祈願。その平定の後報恩のため社殿を新に造営した。 | |||
香取神社 | 東京都江東区亀戸3-57-22 | ||
天慶の頃、藤原秀郷(俵藤太)が平将門を追討せんと当社にて戦勝を祈願。目出度く乱を平らげた後、神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名された。 | |||
浅間神社 | 東京都江戸川区上篠崎町1-126 | ||
天慶承平の乱のとき、平貞盛、将門平定を祈って霧島神宮を祀り、金幣・弓矢を献じて、関東の平安を祈る。 | |||
稲荷神社 | 東京都新宿区下落合2-101-5 | ||
承平二年(932)平将門謀逆を企て、当社稲荷の神託によって上洛、六孫王と号し源姓を賜った。 翌年二月初午の夜、白狐三匹当社に来て、我等これまで将門に属せし所、悪逆増長し、二月中旬に災いが起こることを知ったので逃れてきた。 これからは当社の眷属となり永く守護せんことを願う。 社守がさっそく山奥へ隠して食物を供え置いたところ、 二月十三日、将門下総国島廣山に引き籠り、翌十四日卒島という所にて死亡して藤原秀郷に首を取られたという。 | |||
千束八幡神社 | 東京都大田区南千束2-23-10 | ||
承平五年(935)、平将門の乱が起り、朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣され、乱後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を氏神として祀った。 | |||
小豆沢神社 | 東京都板橋区小豆沢4-16-5 | ||
小豆沢の名の起こりは、平将門への貢物の小豆を積んだ船が、七七子崎といわれた小豆沢の入江で暴風雨のため沈没したことから。 | |||
【 平将門魔方陣 「将門は神になれたか」:玄松子の雑記帳 】