[HOME] > [雑記帳] > | |
クシとトヨ −門神− |
|
大きな神社へ行くと、参道の鳥居や神門をくぐった所の左右に、小さな祠がある。
両社は正面を向いていたり、向かい合っていたりと様々だが、「対」の社だ。
通常、「門神」「門守」と呼ばれ、悪神や鬼の侵入を防ぐ働き。神社の門番である。
門神の信仰は、中国から来たもので、道教の影響だろう。
さて、神社に話しを戻すと、神社の門神は、また「矢大臣」「随身」「看督長」などいろいろな呼び方もある。
両社は正面を向いていたり、向かい合っていたりと様々だが、「対」の社だ。
通常、「門神」「門守」と呼ばれ、悪神や鬼の侵入を防ぐ働き。神社の門番である。
−日向・霧島神宮の門守社−
【門神】 門を守る神。南宋代の
『類説』巻六に引く南北朝時代の宗凛(そうりん)の
『荊楚歳時記』(けいそさいじき)に、「正月元旦に二体の
神を描いて戸の左右に貼る。左側が神荼(しんと)、
右側が鬱塁(うつるい)である。俗に門神という」と
ある(現行本にはない)。
唐代以後、さらに秦叔宝と胡敬徳も門神に なった。元代の『三教捜神大全』巻七に、「言 い伝えによれば、唐の太宗〔在位六二六〜六四九〕は心 が休まらなかった。寝室の外で煉瓦を投げ瓦 をもてあそび、鬼魅が叫んでいた。……太宗 が群臣にそのことを話すと、秦叔宝が前に進 み出て、「……胡敬徳とともに武装して門の外 に立ち、警備にあたりましょう」と言った。 太宗がそれを許すと、その夜ははたして騒ぎ が起らなかった。……そこで、絵描きに二 人の像を描かせ、……後宮の左右の門に掲げ るよう命ずると、邪鬼の祟りはおさまった という。その後、代々踏襲され、ついに門神に なった」とある。
あるいは、「秦軍、胡帥」という字を書いて 戸に貼ることもある。
門前の守護神として、仏教寺院などでは、阿・吽一対の金剛力士像「仁王」が用いられている。
唐代以後、さらに秦叔宝と胡敬徳も門神に なった。元代の『三教捜神大全』巻七に、「言 い伝えによれば、唐の太宗〔在位六二六〜六四九〕は心 が休まらなかった。寝室の外で煉瓦を投げ瓦 をもてあそび、鬼魅が叫んでいた。……太宗 が群臣にそのことを話すと、秦叔宝が前に進 み出て、「……胡敬徳とともに武装して門の外 に立ち、警備にあたりましょう」と言った。 太宗がそれを許すと、その夜ははたして騒ぎ が起らなかった。……そこで、絵描きに二 人の像を描かせ、……後宮の左右の門に掲げ るよう命ずると、邪鬼の祟りはおさまった という。その後、代々踏襲され、ついに門神に なった」とある。
あるいは、「秦軍、胡帥」という字を書いて 戸に貼ることもある。
−『中国神話伝説大事典』−
−『道教の神々』−
−『仏尊の事典』−
「矢大臣」というのは、通常、冠をかぶり弓矢を持っているためにその名がある。
「随身」は、上古、警備のための近衛府の武人。
「看督長」は、検非違使付属の官人で今の警察のような役目。
この二神は、「忍日・来目」だとか「櫛石窓神・豊石窓神」と言われている。
「随身」は、上古、警備のための近衛府の武人。
「看督長」は、検非違使付属の官人で今の警察のような役目。
−山城・御香宮の矢大臣−
「忍日・来目」とは、高皇産霊神の末裔である、大伴連の遠祖、天忍日命と来目連の遠祖、天津久米命のことで、
『日本書紀』の一書に記されている、瓊瓊杵尊(ニニギ)の天孫降臨の時、先導した武神である。
『古事記』のこの場面、邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨の場面では、随伴した神々の中に、 「…次に天の岩戸別の神、またの名を櫛岩窓(くしいはまど)の神といひ、 またの名を豊岩窓(とよいはまど)の神といふ。この神は御門の神なり。」 と「天岩戸別神・櫛石窓神・豊石窓神」が一柱の神として書かれている。
「櫛石窓神・豊石窓神」は、また、忌部氏伝来の御門祭の祝詞では「櫛磐間戸神・豊磐間戸神」と記され、 延喜式神名帳宮中神の条の「御門巫祭神八座」の中にあって、 御殿の窓の神で、外敵侵入を防塞する機能をもつらしい。
この、「櫛」と「豊」ってなんだ?『古事記』のこの場面、邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨の場面では、随伴した神々の中に、 「…次に天の岩戸別の神、またの名を櫛岩窓(くしいはまど)の神といひ、 またの名を豊岩窓(とよいはまど)の神といふ。この神は御門の神なり。」 と「天岩戸別神・櫛石窓神・豊石窓神」が一柱の神として書かれている。
「櫛石窓神・豊石窓神」は、また、忌部氏伝来の御門祭の祝詞では「櫛磐間戸神・豊磐間戸神」と記され、 延喜式神名帳宮中神の条の「御門巫祭神八座」の中にあって、 御殿の窓の神で、外敵侵入を防塞する機能をもつらしい。
【 クシとトヨ −門神−:玄松子の雑記帳 】