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「郷土を救った人々 −義人を祀る神社−」 九州・沖縄地方編
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 昭和五十六年、神社新報社より発行された 「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」 という書籍がある。

 帯には、
激流渦まく水中に自ら人柱となって消えていった人々!
十年、十五年と独力山中の絶壁に水路を掘りつづけた人!
農民のため漁民のために、すすんで自らの生命を捧げた人々!
来年の種のためにと、餓死をしてまで籾を残していった人!
それらの人々に対する郷土の信仰は、この日本がつづくかぎり決して消えることがない。

そんな、郷土のため、人々のために犠牲になった人達、尽力した人達を祀る神社が地方にはある。
このページでは、「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」に載っている神社の要約などを中心に列記する。
近くを訪れた際には、一度足を運んでみたいという僕の願望のリストなのだ。

本ページは九州地方(福岡県、大分県、佐賀県、長崎県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県)のリストです


福岡県
宇島神社 福岡県豊前市宇島70
【杉生十右衛門貞則命】
 江戸後期の創建。当地の郡代であった杉生十右衛門貞則は、文政年間、郡民の苦しい生活を救うためにも、通航船の難破沈没を防ぐためにも、築港の必要があると説き、 許可を得て宇島港を築いた人物。
 文政四年(1821)工事を開始、海浜に小船で石を運んで海に投げ入れる工事は難航し、六年の歳月をかけて、文政十年(1831)にようやく完成した。 ところが、その年の八月に発生した大台風によって堤頭の一部が決壊。工事に手抜きがあったとの風評が広がり、杉生十右衛門貞則は責任を取って職を辞し謹慎して、 文政十五年、自刃して果てた。その悲壮な最期は武士の精華と称賛され、宇島港の守護神として、文政五年、工事完成を祈願して建立されていた海神社に合祀され、 大正五年、宇島神社と改称された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
意吉神社 福岡県北九州市小倉南区高津尾
【意志方頭命】
 元和三年の創建。元亀年間(1570)高津尾郷原の村人・意志方頭は、当地に水を引き、豊かな水田を開発して、 白い米の飯を腹いっぱい、住民たちに食べさせたいと考え、隣部落の山本から水を引こうと言いだした。 部落の長たちは「狂気の沙汰」と一笑に付すか、猛反対するばかりであった。 しかし意志方頭の一命を賭しても完成させるとの熱意に動かされ工事が認められた。
 意志方頭は、氏神様・西大野八幡にお詣りし、水路要地の調査を重ね、村民総出で、昼は農作業をし、夜は提灯をかかげて水路作りに励んだ。
 これを知った隣の山本村の住民は、ひょっとすると郷原へ水を引かれるのではと心配し、今のうちに山本にも田を増やそうと、同村でも水田開発に励んだ。
 村長などの妨害などもあったが、十年の歳月をかけて水路は完成し堰の水を流したが、あいにく雨量が少なく水は流れなかった。 その責任を問われた意志方頭は磔となったが、その途端、一天俄かにかき曇り大雨が降り出して、郷原の田に大量の水が注がれた。
 村民は意志方頭を祀る小祠を建てて、その霊を祀った。

※ 『郷土を救った人びと』には「心吉神社」とあるが『福岡県神社誌』には「意吉神社」とあり『福岡県神社誌』に従う。
 「意吉」が正しいとすると、祭神名も意吉方頭命である可能性もあるが未確認。
 また、飯塚市(須佐之男神)、小倉北区(建御名方神)、豊津町(須佐嗚尊)にも「心吉神社」が存在するが当社との関係は未確認。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
波折神社境内 六之神社(六社宮) 福岡県福津市津屋崎字古小路1386
【佐兵衛命・甚兵衛命・七良兵衛命・作右衛門命・長兵衛命・孫右衛門命】
 天保五年の創建。寛永年間、藩の浦奉行篠原勘右衛門と相役小清水一角が、津屋崎の漁区画整理を行い、津屋崎漁民の漁場が縮小制限された。
 漁場の縮小は漁師たちの死活問題であり、嘆き悲しむ人々を見て、庄屋左兵衞の家に五人の組頭が集まり、奉行への決死の嘆願を決意、 六人は、何度も嘆願書を出し続け、その熱意によって漁場境界の見直しとなった。
 ところが、六人に案内された奉行は「あの石を六人で担いで運べ。綱が切れたり、力尽きた場所を境界とする」と言いだし、三百貫(1トン以上)もある巨石を指差した。 必死の六人は藤蔓で縛って巨石を担ぎ、血を滴らせながらも歯をくいしばって歩き続けた。その時、役人によって蔓が切られ巨石は砂浜に落ちてしまったが、 その場所は、漁師たちの希望にかなう漁場の境界を遥かに超えており、漁師の生活安定は約束された。
 だが六人の強訴の罪は免れず、全員が死罪の判決となった。六人が処刑を迎える前夜、「御船方」の吉本という役人は六人に同情し、 牢に出向いて、博多山笠を描いた団扇や、味噌汁・麦飯を差し入れた。いよいよ処刑の日、彼らの遺言は「吉本氏に受けた接待が忘れられぬ。 同家の恩に報いるため、味噌の材料である小麦を届けたい」ということであったという。
 天保五年(1884)黒田藩の許可を得て、漁民たちは六人を祀る六社宮を創建。六人の遺言通り、祭礼のたびに小麦二俵を吉本家に贈り続けているという。 また、吉本家では、今でもそれで味噌を作り近隣へ配るとともに、博多山笠の団扇五十本を漁業組合に贈っているという。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
田栄神社 福岡県うきは市浮羽町三春573−5
【田代弥三左衛門重栄命】
 大正五年の創建。吉井村の大庄屋であった田代弥三左衛門重栄は、袋野一帯の荒地の開発を思い立ち地勢調査測量を行った。 筑後川の袋野地帯の上流が瀑布になっているので、岩壁にトンネルを掘り用水路を掘ることを計画し、 村民に謀ったが、あまりの難工事に誰も相手にしなかった。 田代弥三左衛門重栄は、独力で完遂しようと決意し、子の重仍との連署で寛文十二年、久留米藩に工事許可を出願し許可を得た。
 田代弥三左衛門重栄は、堅固な岩層の貫通は農民や大工ではできないだろうと考え、山陽山陰の鉱山で働く坑夫を雇い入れ、 鍛冶屋に特別なツルハシを作らせるなどの工夫をして工事を開始。数々の困難を克服して、ついにトンネルは貫通し用水路も完成した。
 坑夫たちは帰国に際し、田代弥三左衛門重栄の義気と徳を称え、水路の入口の岩に田代家の家紋と肖像を刻み、村民らも「堀貫主霊神」と尊崇して社殿を建てた。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
水神社 福岡県うきは市吉井町桜井208−1
【栗林次兵衛命・山下助左衛門命・本松平右衛門命・重富平左衛門命・猪山作之丞命】
 明治十五年(1882)の創建。寛文三年(1663)旱魃の被害で、多くの村民が飢餓に苦しんでいた。
生葉郡の世話役であった夏梅村庄屋の栗林次兵衛、高田村庄屋の山下助左衛門、清宗及び島村庄屋の本松平右衛門、今武村庄屋の重富平左衛門、菅村庄屋の猪山作之丞の五人は、 村民の困窮を救うには、筑後川の水を郡内に引き込むしかないと考え、測量調査をした上で、大石村に大きな堰を設け、掘割を造ることにした。
 久留米藩に工事許可を求めたが、従来にない大工事であり、水路にあたる他の村の庄屋らの反対もあってなかなか許可は下りなかった。 そこで五人は、工事失敗の場合は、五人全員で責任をとり、どのような罰も受けるとの誓約をし、不成功の場合は磔という条件で、ようやく工事許可が下りた。
 寛文四年から始まった工事は難航したが、庄屋たちを磔にしてなるものかという人夫たちの力強い働きによって掘割は完成し、筑後川の水があふれるばかりに流れ込んできた。 この成功により、他の村の庄屋たちも水を引きたいと願い出て、掘割の拡張工事が始められ、一躍、四、五百町歩の灌漑が実現した。
 久留米藩は五庄屋の偉功を称え、一人ひとりに褒美を与え、彼らの子孫を藩士に加えた。明治十五年、五庄屋追慕のため長野水門前に水神社を創建し、 水波売神を水路の守護神として祀り、五庄屋を配祀した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
大堰神社 福岡県三井郡大刀洗町富多字東屋敷1302
【草野又六命・鹿毛甚右衛門命・高山六右衛門命・丸林善左衛門命・秋山新左衛門命・中垣右衛門命】
 大正十四年(1925)の配祀。宝永七年(1710)旱魃に苦しむ村民を見かねた鏡村庄屋の高山六右衛門は、水道の開墾を決意し、 高嶋村庄屋の鹿毛甚右衛門に協力を依頼して、郡奉行に願書を提出した。
 久留米藩主有馬則維はこの計画を受け入れ、工事監督として草野又六を派遣。正徳二年(1713)河堰工事、溝掘工事が開始されたが、 工事は難航。また筑前・筑後の領民の利害の対立などによって工事は中断。この時、筑後早田村庄屋丸林善左衛門が仲介に立ち、 草野又六を激励して工事は再開させ、無事に完了したが、丸林善左衛門は筑前方の恨みを買い、投獄され病死してしまった。
 大正五年、工事を監督した草野又六、企画した高山六右衛門と鹿毛甚右衛門、工事再開に尽力した丸林善左衛門、 水利開発に功のあった秋山新左衛門と中垣右衛門には、特旨を以て従五位が追贈された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
お夏大明神 福岡県福津市宮在自
【お夏さん】
 天明三年(1783)の凶作の時、年貢米の量を決める箕さばき(モミを脱穀して米の量を計る)を行ったお夏は、 農民達を救うため、わざと実入りのモミをモミ殻として振い落し、米の量を少なく見せかけた。
これに怒った役人によって、お夏は打ち首になってしまった。
参考:案内板
大分県
八幡鶴市神社 大分県中津市相原3218
【布留野鶴女命・布留野市太郎命】
 崇徳天皇の保延元年は、旱害のため餓死するものが相次いでいた。 そこで十六ケ村の住民は、七人の領主の指導で堰の修築を始めたが、完成直前に大洪水がおこり、すべてが流されてしまった。 領主たちは氏神である八幡神社に参籠して協議したが良い方法を考えつかなかった。 この時、領主の一人湯屋弾正が「今は人柱を立てて工事を再開するしか道がない」と提案し、六人はこれに賛同。 六人の中から神意によって人選した結果、湯屋弾正が人柱となることとなった。
 これを知った湯屋家代々の家臣・布留野源六兵衛の娘・鶴女は、「弾正様は今後の築堰の指導に必要な人。ぜひとも私を身代わりに」と名乗り出た。 弾正はこの申し出を固く拒んでいたが、鶴女の一子市太郎(当時十三歳)までが進み出て、母と共に忠孝を全うさせ給えと嘆願したため、 こうした清い心であれば神も聞き届けるだとうと、ついにその願いを許すこととなった。
 母子は、村人達の見守る中、静かに輿に乗り、水底深く沈んでいった。村人たちは母子を八幡神社に合祀して、朝夕参拝し決死の覚悟で難工事を完成させた。
 鶴女・市太郎の二霊は、下毛郡湯屋(中津市湯屋か?)の貴船神社や金手の鶴一社にも合祀されている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
貴船神社 大分県中津市大字湯屋286
【布留野鶴女命・布留野市太郎命】
 上記、人柱となって水底に沈んだ布留野鶴女命・布留野市太郎命の母子を合祀しているらしいが未確認。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
鶴一社 大分県中津市大字金手147
【布留野鶴女命・布留野市太郎命】
 上記、人柱となって水底に沈んだ布留野鶴女命・布留野市太郎命の母子を祀っている。
参考:「平成祭データ」
青島神社 大分県大分市大字三芳字申掛813
【橋本五郎右衛門命】
 文化二年の創建。豊後青莚(あおむしろ)の始祖橋本五郎右衛門を祀る。
 大分の豪商の家に生まれた橋本五郎右衛門は諸国を巡り、寛文三年ごろ、薩摩において琉球から渡来した「草莚(くさむしろ)」という敷き物をみて、すっかり感心した。 大分地方で使用している「荒莚(あらむしろ)」に比べると格段に美しく丈夫であった草莚の技術を導入しようと、 単身琉球へ渡ったが暴風雨で遭難し、ある小島に漂着。偶然島の農家でイグサを栽培していたので、分けて欲しいと頼むが「国禁で他国人へは譲れない」とのこと。 ようやく僅かの苗を持ち帰ったが詳しい栽培方法を知らぬため苗はすべて枯れてしまった。
 そこで再度小島に渡り、偽って住民の下男となり栽培方法を研究。栽培に詳しい島の住人一人を連れて帰郷し、ついに栽培に成功。 数年後には立派な製品が完成し、豊後の特産品として広く知られるようになったという。
 文化二年(1805)青莚業者が相談し、橋本邸内に祠を設けて祀り、明治十四年には大分町生石浜へ、明治四十二年に現在地へ遷座された。
 橋本五郎右衛門は杵築市の青莚神社にも祀られている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
青莚神社 大分県杵築市大字杵築15−28
【橋本五郎右衛門命】
 上記豊後青莚の始祖橋本五郎右衛門を祀る。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
板屋原神社(大将軍神社) 大分県臼杵市野津町野津市字原1225
【佐土原甚左衛門親善命】
 嘉永三年(1850)の創建。天保年間の凶作の年、黎野村の庄屋であった佐土原甚左衛門親善は、住民の窮状を見かね 領主稲葉氏に何度も救済を願い出たが、奸臣の妨害にあって稲葉氏の耳には届かず、逆に佐土原甚左衛門親善が責めを負うことになり、 ついに天保十年(1840)自刃して果てた。
 以後、火災その他の災いが三百余回も起きたため、住民たちは佐土原甚左衛門親善の祟りであるとおそれ「大将軍神社」と称してこれを祀った。 領主はこれを聞いて多いに怒り、使いを出してこれを破壊させようとした。 ところが使者の乗る輿は途中で火を出して焼けてしまい、持ってきた槍も焼け、鉄砲隊に命じて石祠を破壊しようとすると鉄砲が暴発して即死。 なんとか石祠は破壊されたが、参加した隊員は急に腹痛となったり病となって二人が死亡。ふたたび各地で火災が頻発するようになった。 ついに領主は嘉永三年(1850)佐土原甚左衛門親善の霊を祀る野津郡惣社を建立した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
佐賀県
増田神社 佐賀県唐津市肥前町高串
【増田敬太郎命】
 明治二十八年、高串港でコレラが発生。患者がどんどん急増する中、みずから進んで当地に赴任した警察官・増田敬太郎は、 伝染拡大を防ぐため、ただちに患者の家を封鎖して交通を遮断する措置をとり、死者が出ると充分な消毒の後みずから背負って墓地まで背負って埋葬した。 また、昼夜を問わず地区内を巡回して伝染病の予防法や看護法を説いて回った。
 ところが、赴任して三日目、自分自身も感染していることに気付き、「もはやこれまで」と病床についた増田巡査は、地区の人々に 「高串のコレラは私が一人で背負っていく。私が指導した看護法や予防対策を行えば、かならず高串はキレイになる。将来共に伝染病から高串を私が守ります」と言い残して果ててしまった。
 住民は増田巡査の教え通りにコレラ対策を徹底した。すると巡査の死後数日で伝染は急速に下火となって、コレラは消滅した。 人々は増田巡査の遺骨の一部を鎮守の秋葉神社境内に埋葬して、いつしか増田神社と称するようになり、昭和十二年正式に増田神社と改称された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
長崎県
源三神社 長崎県壱岐市勝本町東触高尾山
【源三命】
 明治三十一年(1898)の創建。江戸時代の壱岐は平戸松浦藩に属していたが、風害・旱魃が多く、六公四民の年貢に苦しんでいた。 また、朝鮮使節が勝本港に入港した際は、接待費用を島民から徴収していたため、島民の生活は疲弊していた。
 さらに地方役人は、農民から取り立てる時は納枡(三斗五升)を使わせ、お上に差し出す時は京枡(三斗三升)を使って差額を着服。 また、壱岐では数年おきに土地の割当を替える土地制度であったが、肥沃な土地は役人たちで分け、やせ地を農民に与えており、島民の不満が募っていた。
 天明の大飢饉のとき、農民の怒りは一揆へと進み、百姓・源三は幕府への直訴を決意した。 中尾円弥ら地方役人は、これを察知し、源三の暗殺を企て、文化六年(1809)源三家を急襲。幸いにも難を逃れた源三はそのまま島を脱出し、 長い苦労の旅と、江戸での貧苦の生活の末、十年後の文政二年(1819)に将軍に直訴。翌文政二十年(1820)に処刑された。事件の後、壱岐での土地制度は公平なものに改善された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
熊本県
大野神社 熊本県玉名市滑石
【大野十左衛門一隆命】
 天保三年(1842)の創建。寛政元年(1789)父の後を継いで滑石村の庄屋となった大野十左衛門一隆は三次にわたり、 合計百八十二町歩の干拓工事と約八Km余りの用水路を開墾を行った人物。
 村民は大野十左衛門一隆の偉業に感謝し、天保十三年、大野十左衛門一隆の没後に小祠を造って祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
古閑原守護神社 熊本県上益城郡御船町上野
【光永平蔵惟詳命・木倉太郎兵衛惟豪命】
 江戸末期の創建。江戸初期と江戸末期に郷土の水利事業に尽くした二人の義人を祀る。
 木倉太郎兵衛惟豪は、江戸初期の寛永・天和の頃、およそ四十四年間にわたり木倉郷の惣庄屋として水利事業に尽力。 木倉、御船、滝尾の各村に合計九ヶ所の用水井手を掘り、中でも五里のおよぶ元禄井手は大変な難工事で、 木倉太郎兵衛惟豪の偉業を記した「南田代村水瀦碑」が七滝村に建てられた。
 光永平蔵惟詳は、江戸末期の天保の頃、木倉郷の惣庄屋となり、三十年にわたって各種の公益事業に尽力。 農民の生活を苦しめた年貢の減免を官に嘆願し、水利の悪い川筋の堀替え、干田の地に用水を引き、 堤防を築いて溜池を作り、道を開き、橋を架けるなど、特に御船川水源の渓谷の水を集めて一つにし、 二十余か所のトンネルを掘る水利工事は七年の歳月を費やしたが、その後、当地方では大旱魃の時にも灌漑や飲用の水が不足する事はなかったという。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
布田神社 熊本県上益城郡山都町長原219
【布田保之助惟暉命】
 昭和十一年の創建。布田保之助惟暉は、天保四年(1833)父の後を継いで矢部郷惣庄屋となり、文久元年(1861)までの二十九年間、 通潤橋(眼鏡橋)、京の女郎井手、中島井手などの築造を行った人物。
 矢部郷の畑村以南は断岩深渓が多く、灌漑に適さず、飲料水も少なくて、数十間の深い井戸を掘っても旱魃の時には水が枯れてしまう状態だった。 そこで、上流の笹原川の水を引き、轟川の上に大石橋を架けて、橋の上に樋を置いて水を流す工事を進め、 嘉永五年(1852)に工事を開始し安政四年(1857)に完成。その大石橋は通潤橋と命名された。
 明治六年、布田保之助惟暉は没したが、人々はその遺徳を偲び、布田祭と称して毎年春秋に祀り、昭和十一年布田神社が創建された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
貝洲加藤神社飛地境内 文政神社 熊本県八代市鏡町両出1475
【鹿子木量平命】
 明治四十二年(1909)の創建。 飽田郡五町手永鹿子木村の庄屋の家に生まれた鹿子木量平は、安永二年(1773)鹿子木村の庄屋となり、 寛政四年(1792)肥前国の眉岳が崩れ大津波となった時に奔走して救助に尽くし、 寛政九年下益城郡杉島郷の庄屋となり、国丁川に新堰を設けて地質の悪かった地を水で潤した。
 文化元年(1804)に八代郡野津郷の惣庄屋に着任するや、野津の海に新田百一町余りを開墾し豊かな土地に改良した。 その後、八代郡高田郷の惣庄屋も兼ねて、採蝋場の建築、敷河内・高島・海士ヶ江の開墾、宮地の製紙改良など多くの功績を上げ、 文化十三年には大牟田沖墾田開発進めて四百町歩を開き、文政四年には八代郡内に七百町の新地開墾を達成した。
 天保十二年(1841)八十九歳で没した後は、人々によってひそかに神として祀られてきたが、 明治四十二年、鹿子木量平の墓の近くに文政神社が創建された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
多良木菅原神社 熊本県球磨郡多良木町大字多良木字中原
【高橋政重命】
 昭和五十一年の合祀。相良藩士・高橋政重は、藩主の命により郡内を巡察し、湯前、久米地区の荒野をみて、 これを開発するために球磨川に大堰を築き水を引くことを献策した。
 元禄十年(1697)に工事を開始し、四里の用水路を完成させたが水が通らず、元禄十四年の大洪水で堰が押し流されてしまった。 だが高橋政重は諦めず、再度藩主に懇願し、心血を注いで工事を監督。ついに宝永二年(1705)これを完成させた。 この開発により五ヶ町村二千町歩の水田が潤い、球磨郡の三分の一の田が恩恵を受けることとなった。
 高橋政重は享保十一年(1726)に没したが、村民の希望により明治二十八年、高橋政重の功績を刻んだ碑を建て、 昭和五十一年、高橋政重みずから創建した多良木菅原神社に合祀された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
鈴木神社 熊本県天草市本町本681
【鈴木三郎九郎重成命・鈴木九太夫重三命・鈴木伊兵衛重辰命】
 万治三年(1660)の創建。島原の乱で荒廃した天草の立て直しに尽力した三柱を祀る。
天領天草の初代代官となった鈴木三郎九郎重成は、乱により疲弊・荒廃した島内の復興と民衆の生活安定を図ったが、 結局、困窮の根源は過酷な年貢であると考え、その軽減を幕府に上申したが容れられず、承応二年(1653)自刃して訴えた。
 これに心動かされた幕府は、通常は御家断絶となるところ、鈴木三郎九郎重成の死は病死として扱い、 甥の重辰を養子として家督を継がせ(鈴木伊兵衛重辰)、二代目代官に任じた。
 鈴木伊兵衛重辰は、鈴木三郎九郎重成の意志を継ぎ、年貢の減免運動に務め、幕府はこれを容れて、年貢の石高は半減された。
 鈴木三郎九郎重成の兄で、鈴木伊兵衛重辰の父である鈴木九太夫重三は僧侶であったが、常に二人の相談相手となって事業を援け、 特に天草の社寺復興に尽力した人物。
 島の民衆は、鈴木家の恩に報いるため、鈴木三郎九郎重成の七年祭にあたる万治三年、島内各地に二十六カ所の「鈴木塚」を建てた。 現在の鈴木神社は、この「鈴木塚」を原形としたものであり、島内にはいくつかの鈴木神社が存在する。
※『平成祭データ』には以下の社が記されている。
諏訪神社末社 鈴木神社 熊本県天草市楠浦町3513
志岐八幡宮末社 鈴木神社 熊本県天草郡苓北町志岐1
白木尾大神宮末社 鈴木神社 熊本県天草郡苓北町白木尾661
高浜八幡宮末社 鈴木神社 熊本県天草市天草町高浜775
大江八幡宮末社 大江鈴木神社 熊本県天草市天草町大江7212
棚底諏訪神社末社 菅原神社 熊本県天草市倉岳町棚底2677
本泉神社末社 鈴木様 熊本県天草市本渡町本泉511
大宮地八幡宮末社 鈴木社  熊本県天草市新和町大宮地4458
久玉八幡宮末社 鈴木重成命小祠 熊本県天草市久玉町2854
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
宮崎県
調査中
鹿児島県
徳光神社 鹿児島県指宿市山川岡児ケ水396
【前田利右衛門命(玉蔓大御食持命)】
 1719に没した前田利右衛門を祀る。岡児ケ水の漁師であった前田利右衛門は、宝永二年(1705)に琉球に渡り、土地の人が食べていた珍しい芋を持ち帰った。
度重なる開聞岳の爆発により、穀物の育たない山川にとって、カライモと呼ばれたその芋は大事な食料となり、江戸時代に幾度となく飢饉が起こり全国的に多くの人々が亡くなったが山川ではカライモのおかげで死者が出なかったという。
こうしたことから、カライモはやがて薩摩藩全体にひろまり、ついに時の江戸幕府によって全国に広めていくことになったが、その仕事を推進したのが青木昆陽である。
この時にイモが薩摩から出たので、もっぱらサツマイモと呼ばれるようになったという。
参考:「平成祭データ」
沖縄県
調査中


【 郷土を救った人々 −義人を祀る神社− 九州・沖縄地方編 】

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資料
郷土を救った人々
−義人を祀る神社−
神社建築
鳥居
『鳥居の研究』
根岸栄隆著 分類
『鳥居考』
津村勇 分類
本地垂迹
神使
○○の神々
燈籠
路傍の神々
祝詞
神社合祀