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「郷土を救った人々 −義人を祀る神社−」 東海地方編
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 昭和五十六年、神社新報社より発行された 「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」 という書籍がある。

 帯には、
激流渦まく水中に自ら人柱となって消えていった人々!
十年、十五年と独力山中の絶壁に水路を掘りつづけた人!
農民のため漁民のために、すすんで自らの生命を捧げた人々!
来年の種のためにと、餓死をしてまで籾を残していった人!
それらの人々に対する郷土の信仰は、この日本がつづくかぎり決して消えることがない。

そんな、郷土のため、人々のために犠牲になった人達、尽力した人達を祀る神社が地方にはある。
このページでは、「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」に載っている神社の要約などを中心に列記する。
近くを訪れた際には、一度足を運んでみたいという僕の願望のリストなのだ。

本ページは東海地方(愛知県、静岡県、岐阜県、三重県)のリストです


愛知県
明治川神社 愛知県安城市東栄町柳原9
【都築弥厚命・伊予田与八郎命・岡本兵松命・西沢真蔵命】
 水害や旱害に苦しむ悲惨な状況を見るに忍びず、都築弥厚は、文化年中に矢作川上流越戸村より分水して山林原野を開かんと十八年の苦心の末、病に倒れ実現しなかった。 その二十年後、再び矢作川の氾濫で泥沼化し多くの犠牲者が出た。 伊与田与八郎は再度の水利事業に着手。巨万の富を費し辛酸をなめた結果、潅漑の土地八千余町歩に及ぶ日本有数の農業地帯となった。
 明治用水路落成に際し、明治十三年、一祠を設けて伊与田与八郎の生祠を祀り、明治十八年現在地に遷座。 伊与田与八郎は用水開発の為、財産などを使い果たしてしまい、見かねた関係者によって明治川神社神職に迎えられた。
 大正十四年、最初の発起人である都築弥厚を合祀。昭和十七年、伊与田与八郎とともに尽力した岡本兵松、西沢真蔵を合祀した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
明治川神社境内 伊佐雄神社 愛知県安城市東栄町柳原9
【田中勘七郎命・本多寛三郎命・加藤太兵衛命・黒宮許三郎命・中根祐命】
 元は明治十四年、上倉池の狐島という小島に鎮座。大正十五年、上倉池の干拓に際し、上記明治川神社境内に遷座された。
 明治用水開発の功労者(出資者・関係者・従事者)として、田中勘七郎・本田寛三郎・加藤太兵衞・黒宮許三郎・中根祐が祀られている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
塩江神社境内 澤園社 愛知県稲沢市中野宮町85
【澤園兵衛命】
 寛政五年(1793)の創建。尾張地方、特に中島郡一帯はいくつもの川が入り組んで排水が悪く、度重なる水害で農民は苦しんでいた。 天明五年(1785)代官に任命された澤園兵衛は、領内の実情を調査して治水に力を注ぐことを決意し、須ケ谷川の開墾に着手。 私財をなげうって費用にあて、さらに上流と下流の利害関係や、他の代官との支配地域の入り組んだ関係を調整しつつ、苦労の末に、寛政十年難事業を完成。
 人々は澤園兵衛に感謝し、主な村々に社殿や碑を建立して、澤園兵衛を祀った。塩江神社境内の澤園社は、その中の一つであり、当時の代官所役人六柱もともに祀られている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
静岡県
蘆湖水神社(芦ノ湖水神社) 静岡県駿東郡長泉町惣ケ原602
【友野与右衛門命・天ヶ崎嘉右衛門命・長浜半兵衛命・大庭源之丞命・浅井治郎兵衛命】
 箱根芦ノ湖から静岡県駿東郡一帯に及ぶ灌漑水道「箱根用水」を開発した人々を祀る。
 寛文三年(1663)江戸浅草の町人・友野与右衛門は地元の庄屋らと協議し大用水開発計画を企画。幕府の許可を願い出た。 幕府の許可はなかなか下りなかったが、箱根権現の別当・快長僧正は彼らの熱意に心を打たれ、あらゆる援助を行った結果、許可が下りて寛文六年工事着手。
 前代未聞の大工事であったが、幕府の援助もなく、天領での大工事のため何度も召喚・逮捕・尋問を受け、さらに頑迷な農民による迫害の中、四年の歳月をかけて工事は完成した。
 だが工事完成後、いかなる理由によるものか、友野与右衛門等は幕府に捕えられ、あるいは死罪となり、あるいは磔となり、あるいは牢内で無残な最期をとげた。
 用水の恩恵を受けた駿東郡の農民が、処刑された五柱の御霊を小祠に祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
磔八幡神社(青島八幡宮) 静岡県富士市青島町
【川口市郎兵衛命】
 江戸中期の合祀だが現在は祀られていないらしい。
 延宝年間、領地のあらたな課税基準を定める地方検地の際、当地方の幕吏は自己の栄達のため、収税の成績を上げることのみを考え、 不正な検地によって過酷な税率を課し、本来免税・減免されるはずの新田にも重税を課した。 これを知った庄屋・川口市郎兵衛は、強くこれに抗議。幕府の実状調査の結果、川口市郎兵衛の主張は認められた。 だが強訴の罪状により、川口市郎兵衛は磔刑の処せられた。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
小田神社 静岡県牧之原市大沢字園
【紅林次郎右衛門命】
 天正の初期、園・波津の二村は水利が極めて悪く農民たちは疲弊していた。園村の有力者であった紅林次郎右衛門は、この窮状を救うべく実地調査を重ね、郷川から用水を引く計画を立て領主に工事許可を申請した。 ところが郷川は、隣村・須々木村の重要な灌漑用水であったため、須々木村住民の反対にあい、何度も妨害を受けた。 紅林次郎右衛門は熱意を持って須々木村住民を説得し、用水路を引いても須々木村には影響がないことを説き続け、天正三年(1575)ようやく工事が完成した。
 しかしながら紅林次郎右衛門は冤罪によって捕えられ、獄中にて没してしまい、村民は紅林次郎右衛門の遺徳を顕彰して、園・波津の境に祀り小田大明神と称した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
井成神社 静岡県菊川市加茂
【三浦刑部命】
 元亀・天正の頃、加茂村一帯は水利が極めて悪く、ひとたび旱魃があると農作物が全滅するという状況だった。 村民は井堰を設けて菊川の水を引く計画を立てたが、経路にあたる土地は何人かの領主の支配するところであり、 利害関係のため役人たちに嘆願を握りつぶされ、工事は許可されなかった。
 加茂村住人三浦刑部は、農民の窮状を見るに忍びず、日夜思案の結果一案を思いついた。 粗末な衣服を着て東海道の街道に立ち、狂人を装って「嫁をやるなら加茂へはおよし、加茂は雲雀の遊びどこ」 「奉公するなら加茂へはおよし 加茂は雲雀の遊びどこ」と歌い続けた。この歌が領主達の耳に入り、 歌の詳細を調べさせた結果、役人たちが握りつぶしていた灌漑工事の嘆願が領主達の知るところとなった。
 領主達の許可を得た工事は、十余年の歳月をかけて完成し、加茂村の耕地の九割を灌漑する事が出来た。 しかしながら三浦刑部は工事の途中に心労に倒れ、完成前に没してしまった。臨終の際の遺言によって 加茂村が一望できる場所に小祠が立てられ祀られた。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
井宮神社 静岡県菊川市嶺田1−1
【中條右近命】
 中條右近の住む嶺田村は俗称三千石と呼ばれる大村であったが、水源地が遠いため年々旱害で人々の生活は困窮していた。 慶長十二年(1607)徳川家康公が鷹狩りに訪れた時も旱害が激しく住民は飲み水にも困っていた。 徳川家康公は住民の救済のため丹羽彌惣を介して「一村隔てた北方奈良淵と呼ぶ菊川から水を引けば灌漑の役に立つ」と言上した。 ところが、その後戦乱となり、この話は昔話となってしまった。
 中條右近は父からこの話を聞き、権現様御憐言の事実を強調して願い出れば、灌漑工事の許可が得られるはずだと決意。 両親の死後、領主の違う他領へ入るため狂人を装い山野を遊び歩きながら密かに三年間の測量調査を行って、決死の覚悟で将軍に直訴。 丹羽氏子孫の証言もあって用水開墾の許可を得、将軍家の御声がかりで官費をもって工事は完成したが、直訴の罪によって中條右近は横須賀の刑場にて処刑された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
水神社境内 松岡神社(池主霊社) 静岡県磐田市大原1276−1
【松岡萬命】
 明治九年(1876)の創建。大原一帯は大池の水を灌漑に利用していたが、江戸末期、水田造成の気運が盛んとなり、一部の利権屋によって大池の干拓・水田化がすすめられた。 大池が消失すると水不足により農民の生活が脅かされるので、農民らは必死の陳情で開拓を食い止めていた。
 明治になって勧業殖産という明治政府の方針に従い、再度大池に目を付けた利権屋が殺到。ついに明治三年、見附郡役所の役人により、開拓取り止めを願い出た総代五人を捕えられるという事態となった。 当地の水利官であった松岡萬は、農民の訴えを聞き、大池の実情を調査。農民たちの言い分が正しいとわかると必死の努力で政府に建言し、 明治四年、認可寸前であった開拓事業を阻止し農民を救った。農民たちはこれに感謝し、生前の明治九年、松岡萬の生霊を祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
岐阜県
黄金神社 岐阜県高山市堀端町108
【茂住宗貞命・宮嶋平左衛門命】
 寛永十八年(1641)の創建。慶長年間、金森藩では国内鉱業の振興を祈念し金山毘古命、金山毘女命を奉載して黄金神社を創祀した。
 配祀されている茂住宗貞は糸屋と号し、領主金森氏の庇護のもと各所に鉱山を開き、飛騨地方の鉱山物採取の創祀者とされる人物であったが、 慶長十三年(1608)領主の忌諱に触れ追放を命じられ不遇の中で寛永十二年(1643)に没し、寛永十八年に黄金神社に合祀された。
 宮嶋平左衛門は金沢藩士であったが、鉱業に造詣が深かったので、寛永六年(1629)金森藩に仕え、各地に鉱業を興して金山奉行となった。 ところが同僚などの讒言により寛永十五年(1638)城中にて横死。その後城中に怪異が続発し、飛騨全域が凶作となり、鉱業も衰退した為、 寛永十八年、黄金神社に合祀して宮嶋平左衛門の霊を祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
西上田神社境内 地神宮 岐阜県下呂市萩原町西上田字新シャ100
【日下部某命】
 江戸初期の創建。元和二年(1616)大坂夏の陣の時、領主金森氏は領内にて徴兵し、一村に一人の出役命令を出した。 戦陣に加われば生死は知れず、住民は恐怖に陥った。住民たちは旧家である日下部家に村の代表として出役を懇願し、 出役の上は生死にかかわらず、土地神として永代祀ることを約束した。日下部某はこの懇願を受け村の代表として出役。 無事に帰郷した後、日下部某の死後、地神宮に合祀された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
楢尾神明神社境内 国吉神社 岐阜県下呂市萩原町古関1553
【広瀬清七郎命ほか八十七柱】
 寛政三年(1791)の創建。時の飛騨代官であった大原父子は汚職圧政の限りを尽くしていた。 これに対し、明和八年(1771)から寛政元年(1789)の約二十年間、三度に渡って農民たちは結束して抵抗したが、 磔・獄門以下一万人におよぶ犠牲者がでるなどの未曾有の惨劇となった(大原騒動)。
 飛騨高山の取り次ぎ役であった広瀬清七郎は、この窮状を六ケ村名主とともに幕府に直訴し、代官(郡代)以下厳罰に処されたが、 彼らもまた打ち首となった。郡民は広瀬清七郎の功績を「飛騨の佐倉宗吾郎」と讃え、 寛政三年、広瀬清七郎の出生地寒神神社境内に祀り、国吉大明神と敬った。 明治四十一年、楢尾神明神社に寒神神社とともに合祀され、旧社地には記念碑が建立された。 昭和三十八年、楢尾神明神社境内に末社国吉神社が創建され、大原騒動で極刑に処された犠牲者八十七柱も合祀された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
宮谷神明宮境内 川西彰魂社 岐阜県下呂市萩原町羽根字宮谷2842
【広瀬清七郎命】
 上記国吉神社同様、飛騨の義民・広瀬清七郎命を祀る。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
馬荘霊神社 岐阜県加茂郡川辺町下吉田494
【馬場荘助命】
 天保十三年(1842)の創建。星神社の鎮座する権現山の登拝道に鎮座。 享保年間、権現山の入会権・境界線を巡って、下吉田をはじめ米田郷十三ヶ村で争いになった。 下吉田庄屋であった馬場荘助は紛争解決に尽力、幕府への出訴などを行い、下吉田に有利な形で決着させた。
 ただし、あらかじめ山中に消墨を埋めておき、「境界には墨が埋められていると伝えられている」と主張して 墨を掘り当てる方法であったらしい。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
井神社 岐阜県関市下有知6324−2
【喜田吉右衞門命・柴山伊兵衛命・林幽閑命】
 文政九年(1826)の創建。尾張国の喜田吉右衞門と林幽閑、当地関村の住人・柴山伊兵衛の三人は、 曽代より用水を開発し、近郷四ヶ村(松森・下有知・小瀬・関)の水田を開拓した功労者。 これに感謝した住民たちは協議し、文政九年に創祀した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
治水神社 岐阜県海津市海津町油島
【平田靱負命】
 昔この地方は木曽三川に囲まれ、木曽川より長良川揖斐川と、それぞれ一米余り川床の差があり低くなっていた。 そのため土地の低い美濃側は絶えず水害を被り、徳川時代特に慶長から宝暦にかけては、毎年氾濫して治水工事の嘆願が続き、 ついに宝暦三年幕府は遠く離れた薩摩藩にこの治水工事を命じた。これは大藩の疲弊を目的とするものでもあったらしい。
 当時借財に苦しんでいた薩摩藩ではあるが、藩の存亡を懸けその命に従うこととなり、 総奉行に平田靱負正輔を任じ、江戸や薩摩より、総勢九百四十七名を出発させた。 途中大阪で工事費を調達、四手に別れて工事に着手、水との苦闘は難工事の連続、その上度重なる洪水に工事費ははるかに超過した。 幕府側の迫害や侮辱、工事の邪魔等に耐えかねて、自決した者五十三名、疫病の流行で病没三十三名にも及んだ。 総奉行は藩主重年公に工事竣工の報告を副奉行に託し、全責任を負って宝暦五年五月二十五日享年五十二才で自決した。
 幕府の命令とは云え三百里も離れた異郷の地を、水害の苦しみから救った薩摩の人達の血と汗と涙の結晶は、 今もこの地方に語り継がれ偉業として称えられる大治水事業であった。
 この神社はその時亡くなられた八十余名の方々をお祭りして、感謝の誠をささげ、願望成就の神として崇敬されている。
参考:「平成祭データ」
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
三重県
高茶屋神社末社 水分神社 三重県津市高茶屋小森町717
【西島八兵衛命】
 津藩主藤堂高虎の近習であった西島八兵衛は、大坂の役で功を立て高虎の信任を得た。寛永元年(1624)諸国で旱魃が続き、 讃岐地方は最も厳しい状況になっていた。西島八兵衛は藤堂家と婚姻関係にあった高松藩に請われて客臣となり救済事業に従事。 三年におよぶ大事業を完成させて水利を修め、三千二百町歩の田畑を旱害から救った。
 その後津に戻って藤堂家に仕えたが、正保三年(1646)今度は津藩が大旱魃に見舞われた。藩主の命を受けた西島八兵衛は領内を巡視、 雲出川を利用して七千二百間におよぶ用水を計画。自ら工事の指揮をとり二年後の慶安元年(1648)用水を完成させた。
 西島八兵衛の死後、領民は西島八兵衛の徳を慕い、水分神社を建立して祀った。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
高岡神社 三重県津市一志町高野912
【山中兵助為綱命】
 当時高野井地区は、肥沃だが干害を受け農民たちは用水の開墾を請願していた。 正保二年(1645)代官に任ぜられた山中兵助為綱は、農民の窮状を憐れみ、自ら水路を調査し、工法を研究して工事に着手。 九年間の難工事の末、承応二年(1653)に用水を完成。いらい旱害の被害はなくなった。
 農民は山中兵助為綱の徳を慕い、山中兵助為綱の死後三十七年の享保二年、山中大神として祀り、井之宮、湯之宮と称していた。 明治初年、宮号廃止にともない堰守神社と改め、明治十一年神明社に合祀して高岡神社と改称された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
美波多神社 三重県名張市新田1087
【加納直盛命】
 享保十六年(1731)の創建。美濃原は伊賀山地に隣接し、水もなく全くの荒野であった。 藤堂藩の加判奉行であった加納直盛は、なんとかこの地を豊かな地にしようと、 遠く三里二十二丁も離れた前梁瀬川から水を引くことを計画。許可を得て承応三年(1654)工事を着手。 七年の苦闘の末、万治三年(1660)遂に用水は完成し、以来、名張有数の穀倉地帯となった。
 この地に移り住んできた人々は協議し、享保十六年(1731)、氏神三柱神社境内に加納神社を創建した。 明治四十年、加納神社は三柱神社に合祀されて大御原神社と改称。明治四十三年、九頭神社、国津神社、福田神社を合祀して 美波多神社と改称された。旧加納神社社殿は今も美波多神社境内に残されているという。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
松井神社 三重県伊勢市中島二丁目
【松井孫右衛門命】
 かつて伊勢の宮川は大雨が降るたびに洪水となり、堤防が決壊して山田の家屋や田畑が流出し、多数の死者が出る川だった。 何度も堤防の補修が行われたが、自然の猛威に勝てず決壊し、その都度改修工事が行われていた。
 寛永十年(1633)、人柱でも入れない限り堤防は完全にならないだろうという人の話を聞いた松井孫右衛門は、 自ら進んで人柱になることを決意。身を清め、神仏に祈って、仏具の鐘を携えて入棺し人柱となって果てた。人々は供養の石像を安置。 大正四年、この石像を修理して碑を刻み、玉垣で囲って鳥居を付けて祀ったのが現在の松井神社だという。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
木本神社境内 吉田大明神 三重県熊野市木本町95
【吉田庄太夫正禮命】
 紀州和歌山藩士・吉田庄太夫正禮が江戸詰していた安政二年(1855)、熊野一揆と呼ばれる騒動が奥熊野で勃発。 この騒動は、紀州藩領、木本代官所支配の北山組四ケ村、入鹿組十ケ村、本宮組十二ケ村、木本組木本浦などの二十七ケ村を 紀州和歌山藩が、隣藩の新宮藩領へ知行替へしようとしたことに反対するもの。当時、表領の和歌山藩に対し、新宮藩は裏領と呼ばれ、 年貢の配分や領民としての身分に格差があり、二十七ケ村はこれに反発し、出訴などに及んだ。
 江戸から木本代官所に派遣された吉田庄太夫正禮は、村民代表者と懇談し、村民の決意が揺るがないものと判断して、 一命を賭して、村民の願いを聞き届けることを約束し、藩は吉田庄太夫正禮の措置を追認した。
 しかしながら吉田庄太夫正禮は全責任を負って、安政五年(1858)江戸藩邸にて自決した。 これを知った住民は木本神社境内に「大明神」の刻まれた石碑を建立し祀った。吉田庄太夫正禮は熊野市神川の上山神社境内にも祀られ、 和歌山県田辺市本宮町の関龍寺境内にも石碑が建立されている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
上山神社境内 吉田大明神社 三重県熊野市神川町神上374
【吉田庄太夫正禮命】
 上記、熊野騒動の責任を負って自決した吉田庄太夫正禮を祀る。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」


【 郷土を救った人々 −義人を祀る神社− 東海地方編 】

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資料
郷土を救った人々
−義人を祀る神社−
神社建築
鳥居
『鳥居の研究』
根岸栄隆著 分類
『鳥居考』
津村勇 分類
本地垂迹
神使
○○の神々
燈籠
路傍の神々
祝詞
神社合祀