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日宮神社
ひのみやじんじゃ
富山県富山市黒瀬北町2−14  Zenrin Data Com Maps display !!


梅鉢

式内社 越中國射水郡 多久比禮志神社
旧村社

御祭神 日宮神社
天照皇大神 天穗日命
合祀 諏訪社 建南方刀美命
合祀 神明社 豊受皇大神

富山県富山市にある。
富山駅の南4・53Kmほどの黒瀬北町に鎮座。
41号線を4Kmほど南下し、掛尾町交差点で西へ進む。
神通川支流にかかる黒瀬大橋の手前、黒瀬交差点から南下すると
道路の東側に境内があるが、境内入口はその道路の一本東の道に面している。

境内入口は東向き。
鳥居の右手に「日宮神社」と刻まれた社号標が立っているが
境内側から見た裏面には以前の社号である「村社 手向神社」と刻まれている。

鳥居をくぐると芝の境内。参道正面に社殿がある。
拝殿は銅板葺き向拝付き神明造。
拝殿の後方に少し離れて、石組の上に前面の開いた本殿覆屋があり、
中に神明造の本殿がある。

富山市市街地にあり綺麗に維持されている神社。
『富山県神社誌』に載っている写真では拝殿は瓦葺で、
昔は社殿の周りには木々が茂っていて鬱蒼とした雰囲気だったようだ。

創祀年代は不詳。
『富山県神社誌』に簡単な由緒が記されているが良くわからない。

まず、御神体は金鏡で「五ケ山の瑪瑙山」から、当地の松に飛び移って来たと伝えられ、
村上天皇の勅により社殿を造営し神領四百石を賜った。
この「五ケ山の瑪瑙山」とは何処だろう。「五箇山」の山のことだろうか。
まさか長野県の瑪瑙山のことではないだろうと思うが、確認できていない。

のち、南北朝時代には黒瀬時重の娘・黒瀬女が専心奉仕していたが
戦国時代に兵火にかかり、さらに神通川の東遷に伴い神領を失って衰微した。

その後、氏子集落が黒瀬、下黒瀬、島黒瀬に分かれ
島黒瀬は神通川の西となり婦中町に変わった。
黒瀬、下黒瀬にそれぞれ日宮社、神明社が存在したが、
明治四十三年、黒瀬の現在地に合祀され、
手向神社と称し、昭和七年指定村社となった。
昭和二十三年、日宮神社と改称された。

『富山県神社誌』によると、この手向神社と称したことが、
五ケ山から黒瀬時重の一族と供に移って来た由緒を裏書きするとあるのだが
意味がわからない。黒瀬時重って誰だ?

で、ここから妄想。
手向神社という名の神社は氷見市にあり、
氷見には日宮と称する神社もいくつか存在する。
黒瀬一族は氷見からやって来たのだろうか。
また、木曽義仲で有名な、富山県と石川県の県境・倶利伽羅峠にも手向神社がある。
倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家の残党が五箇山へ逃げのびたという伝承もある。
黒瀬一族は平家の落人の子孫だったのだろうか。

ところで、『式内社調査報告』には、
当社が式内社・多久比禮志神社の論社の一つとして挙げられている。
「多久比禮」は白い𣑥(たく)の領布(ひれ)と解し神通川の河原を表わしていると考え、
神通川附近の古社に当てはめようとした結果だと思う。
ただし、当社の根拠は薄いとして、塩鎮座の多久比禮志神社を定説としている。

拝殿内をのぞいてみると、梅鉢紋を染めた幕があったが
当社の神紋だろうか。

境内には二宮金次郎の銅像や石塔なども置かれている。


社頭

社号標に日宮神社

裏には村社手向神社

境内社殿

本殿

拝殿

本殿


【 日宮神社 (富山市黒瀬北町) 】

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