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賀茂大宮
かものおおみや
石川県かほく市横山リ−119−1  Zenrin Data Com Maps display !!


十六菊に
双葉葵

式内社 加賀國加賀郡 賀茂神社
旧県社

御祭神
賀茂別雷神
配祀 貴布禰神 合祀 天照大神

石川県かほく市にある。
七尾線横山駅の東500mほどの横山に鎮座。
226号線を東に進み道が大きくカーブしている場所に境内がある。
境内の東側には、宇ノ気川の支流、大谷川が南北に流れている。

境内入口は西向き。
226号線に面して鳥居が立っており、
鳥居の右手に「縣社賀茂神社」と刻まれた社号標。
当社の正式名は、社号標や扁額にある通り「賀茂神社」だが、
境内の由緒書きには、通称の「賀茂大宮」とあった。
境内の雰囲気や社殿の様子などから「大宮」の方が相応しいと感じたので
当サイトでは「賀茂大宮」と記しておく。

鳥居の北側に駐車場があるので、そこに車を停めて参拝開始。
鳥居をくぐり参道を進むと、静かで深く広い境内。
一面に砂利が敷き詰められ、歩くたびにザクザクと鳴る音が心地よい。

参道をゆるく左に曲がると社殿。
拝殿は銅板葺き妻入り入母屋造で向拜付き。
後方の本殿は流造。

境内の隅に、旧本殿が祀られている。
万治元年(1658)建立の本殿で、
現在の社殿は、平成十年に全面改築されたそうだ。

創祀年代は不詳。

社伝によると、継体天皇の御代の勧請という。
中古は安宅の駅の駅路の神であったが、
天平勝宝の頃、英田郷加茂村に遷座。
一説には、この時に北国守護神として賀茂村に勧請されたとも。
また、境内由緒書きでは、御所村に遷座とある。

その後さらに、大同元年金津庄鉢伏に遷座したが、
翌二年、霊夢により、北陸道総鎮守、金津庄の総氏神として現在地に遷座。
平城天皇の勅願所となり六千二百歩の寄進を受けた、皇室の崇敬篤い神社。

旧社地(かほく市鉢伏)は大同閣地と呼ばれ、摂社・閣地神社が鎮座している。
ちなみに、それ以前の鎮座地である河北郡賀茂村(河北郡津幡町)にも
加茂神社が鎮座しており、式内社・三輪神社の論社となっている。
また、境内由緒にある御所村(金沢市御所町)にも、加茂神社がある。

俗説では、ある時、当社の神が鮒の姿で現れ、御手洗川を遊行していたところ、
突然、大風が吹いて、岸の桃の実が落ちて鮒の目に当たり、
苦しみもがいていると、たちまち四面暗黒となった。
その夜、ある者の夢に「北方に霊地あり、社をその地に遷せ」
というお告げがあったという。

式内社・賀茂神社に比定されている古社。
当地は、昔は上賀茂神領四十二カ所の中の一つであったらしい。

敏達天皇から圭田五十七束、醍醐天皇から社領三百六十町歩の寄進を受け、
三家の神主と十二坊の社僧が奉祀していたという大社であった。

天正十一年、豊臣秀吉が前田利長に命じて山城国下賀茂社に当庄十ヶ村を寄進。
翌十二年、越中富山城主佐々成政が末森の合戦に敗れ敗走の時、
当社の森を焼き払い、神職社僧も散り源頼朝寄進の宝物を初め全てを焼失。
唯一、御神体だけを近くの神明社の洞に隠し祀っていたという。

その後、金津庄二十一ヶ村の氏子によって再建され、
万治元年に仮殿を造営。これが現在、境内にある旧本殿である。

合祀の天照大神は、大正五年、横山の産土・無格社神明社の祭神だが、
御神体を隠していた神明社だろうか。
配祀の貴船神は大同四年に相殿に祀られたもの。
また、『明治神社誌料』には素盞鳴尊が配祀されているとあるが。

明治五年郷社に列し、明治十四年県社昇格した。

なお、境内の由緒書きには「京都の中賀茂の宮を・・・」とあり、
京都に上賀茂、下賀茂の他に中賀茂があって、その社が北陸に遷座して
当社となったかのような記述がある。
残念ながら、手持ちの資料では、この部分は確認できていないが、
なかなか興味深くて面白い。

駐車場や社殿に、「菊に双葉葵」を重ねた紋が付けられている。
「双葉葵」は賀茂の神紋。

菊と合わせているのは皇室との関連の深さを表わしているのだろうか。


社頭

手水舎

由緒石碑

境内

境内社殿

拝殿扁額

社殿に神紋

本殿

拝殿

旧本殿

境内

賀茂大宮由来
鎮座地 加賀国金津庄横山
御祭神 賀茂別雷神 貴布祢神 天照大神
御由緒 当宮の鎮座年月日は詳ならざれど、社伝によれば 惣国加賀風土記に、加賀郡下野郷加茂山神社所祭別雷 神也と記される宮にして
大和朝廷時代継体天皇十四年に、京都の中賀茂の宮を 北陸道の総鎮守として御所村に遷座し奉り
敏達天皇二癸巳年四月、圭田五十七束三毛田を給ふと 史書に見えたるを初めとす
その後、奈良時代孝謙天皇天平勝宝五癸巳年英田郷加茂 に遷座、平城天皇大同元丙戌年金津庄鉢伏に遷座、今此の地 を大同閣地と云ふ
大同二年霊夢あり現今の横山の神山の地に遷座され、 平城天皇の勅願所となり皇室の崇敬を受けたり
今に玉橋、すなわち勅使の通行せる橋ありてその時代 を偲ばるる宮にして神職三家社僧十二坊と七堂伽藍を 有せし神社なりと云ふ
大同四年相殿に貴布祢神を勧請す
平安時代嵯峨天皇弘仁十四癸卯年二月越前国江沼。加賀 二郡を割きて加賀国を建国せし頃は横山駅馬五匹とあ り、能登・越中への駅路の神たり
醍醐天皇延喜五乙丑年延喜式の制に式内の社に列し、 六千百歩の境内を附け給ひ、三百六十町歩の田地を附 け置かれ、春秋の祭礼には、神事能及び競馬の儀毎年 執り行はれたりと云ふ この競馬の勝馬は京都上賀茂 の社に今も伝うる五月十五日の競馬会に出馬せりとい ひ 今に金津御庄と称する騎手は上上の上と云はれ別 に半を与えられてありといはる
室町時代正親天皇天正十二甲申年九月十三日辰の刻、 越中富山城主佐々成政、末森の合戦に敗れ敗走の時、 当社の森を焼き払いしにより神職社僧も散り、源頼朝 公より寄進の宝物を初めすべてを焼亡せり、僅かに神 体のみを近くの神明社の洞に隠し鎮め奉れりと云ふ
その後、金津庄二十一ヶ村の氏子相謀りて草結の社殿 を造り遷座し奉り、祭礼を執り行ひたれど、 江戸時代後西院天皇万治元年 現今の本殿を再建す
明治九年 拝殿を改築、同十四年県社に列せられ、 金津庄(高松町七塚町宇ノ気町)の総氏神で摂末社二 十数社の本社として氏子の崇敬篤き神社なり
 昭和五十五年十一月 賀茂大宮々司四十九世 金津彰泰撰

−境内由緒石碑−



【 賀茂大宮 賀茂神社 (かほく市) 】

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