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雄山神社 峰本社
おやまじんじゃ みねほんしゃ
富山県中新川郡立山町立山峰1
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式内社 越中國新川郡 雄山神社 |
富山県と長野県の県境に聳える北アルプスの
立山連峰・雄山(3003m)山頂にある。
雄山へは富山県側の立山駅と長野県側の扇沢を結ぶ
立山黒部アルペンルートを利用する。
登山は大嫌いなのだが、山頂にあるので仕方がない。
前回、長野県側の扇沢から立山を目指したが、
始点の扇沢に到着したときに雨だったので中止した。
今回は、富山県側の立山駅から登ることにした。
アルペンルートでは乗換えが必要なのだが、
立山駅からは、ケーブルカーと高原バスの乗り換えのみ。
扇沢からだと、
トローリーバス・ケーブルカー・ロープウェイ・トローリーバスと
乗り換える必要があり待ち時間が面倒なのだ。
それに、9月は各始発時間が夏休み中より遅くなり、
扇沢からだと朝9時半頃、立山駅だと8時半頃に
室堂ターミナルに到着する。なるべく朝早い方が良いと判断した。
で、立山駅からケーブルカーに乗り、美女平でバスに乗り換えて、
標高2450mにある室堂ターミナルに到着。
室堂から立山 |
天候は曇りだったが、雄山山頂の峰本社が見える。
中間地点の一ノ越山荘も見えたので、
初心者にも、楽勝で登れる山なんだろうなぁ。
山頂部を拡大。峰本社がハッキリ見える。 |
ということで、さっそく準備して歩き始める。
が、歩き始めて数分後、ポツポツと雨が降り出して来た。
仕方がないので、ザックカバーをして歩き出すと、風も出てきて少し寒い。
レインウェアの上着をザックから出し、着込んで歩き出す。
さらに雨が強くなり、パンツもはいて、完全武装。
これじゃ、まるで「登山好き」に見えてしまうじゃないか
と、ぼやきながら一ノ越山荘に到着。
山荘内には多くの登山客がおり、みな、山頂を見上げている。
しばらく待つと、少し小降りになって来た。
「今がチャンス」などと呟きながら、数人が登り始め、
みな、あとに続き始めた。
仕方がないので、僕も登り始める。
一ノ越山荘までは、整備された石畳の道だが、上は瓦礫の路。
どこがルートなのか、良くわからない。
雨は、ほとんど止んだようだが、風が強くてかなり寒い。
一ノ越山荘までは石畳 | 上から一ノ越山荘 | 一ノ越山荘からは瓦礫 |
室堂からは「楽勝」に見えた登山も、運動不足の身には、ちょっとキツイ。
上を見上げても、霧というか雲で真っ白なので、目標が見えないのが辛い。
「まだ登るのか?」と見上げた時、少し風が吹いて、
薄っすらと山頂小屋のシルエットが見えた。
それがすぐ目の前だったので、ちょっと驚いた。
山頂小屋には、当社の社務所があり、
そこから少し、岩場を登った本殿へ参拝するには、受付で拝観料を払う。
拝観料を払うと、祈祷を受けて本殿へ。
本殿へ登る鳥居の左手を進むと、大汝山山頂へ向う道。
山頂は霧の中なので、なかなか良い写真が取れない。
休憩をしながら、一時間程、霧が晴れるのを待った。
日が昇って、周囲は明るくなるが、なかなかハッキリとしない。
逆に霧が濃くなってきた雰囲気なので、あきらめて下山。
山頂社務所 |
社務所から霧の中の本殿 | かすかに晴れた状態 |
石碑の前を通り | 鳥居をくぐって | 石段を登る |
山頂本殿 |
社務所に、立山牛王印を売っていたので購入。
中央の絵は、開山縁起に出てくる白鷹と黒熊を図案化したものらしい。
立山牛王印 |
創祀年代は不詳。
雄山神社は、立山雄山宮とも称し、
立山を神体とする三社の総称である。
立山山頂に峰本社、芦峅寺に中宮(祈願殿)、岩峅寺に前立社壇。
立山は、冨士・白山と並ぶ日本三霊山の一つ。
修験道の霊場として知られ、その中心が本社・雄山神社であった。
三社の中心に関して、岩峅の前立社壇と芦峅の中宮の両社僧間で、
争いがおこり、以後、峰本社を中心とする考えにまとまった。
『和漢三才図会』に、立山開山に関して以下のような記述がみえる。
文武天皇大宝元年、帝の夢に阿弥陀が出現し
「佐伯有若を越中の国司にすれば、国家安泰」と告げた。
帝はすぐに、有若に勅命。有若は嫡男・有頼とともに、越中国へ。
ある日、辰巳(東南)の方角から白鷹が飛来し、有若の拳に止まる。
有若は、これを愛育し、有頼は父に請うて鷹遊びへ出かける。
ところが、白鷹が逃げてしまい、探し求めたが見つからない。
そこへ、森尻の権現が示現して、
「辰巳の方角を尋ねるべし」と教える。
辰巳の山奥で、一人の老人に会う。
老人は、「白鷹は、いま横江にいる」と教え、
自分は「刀尾天神」であると告げる。
有頼が、さらに探し求め、奥へ行くと、熊に遭遇。
急いで熊を射ると、熊は逃げ出し、玉戸の窟へ。
有頼が、後を追って窟へ入ると、そこには阿弥陀の仏像が。
仏像の胸には、有頼の矢が刺さっており、血が流れていた。
そこで、阿弥陀は「我は衆生を救済するため汝を待っていた。
鷹は剣山刀尾天神、熊は我である。
はやく出家して当山を開くが良い」
雄山神社御由緒
社伝によれば、文武天皇の大宝元年(七〇一年)景行天皇の後裔越中国司佐伯宿禰有若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山である。古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大宮、有頼を祀る若宮等がある。 当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもあり清和天皇貞観五年正五位上に宇多天皇寛平元年に従四位下に昇叙せられたことが、三代実録及び日本紀略に見えている。また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正十一年には佐々成政がそれぞれ本殿の改修をしている。明治六年には県社となり、昭和十五年に皇紀二千六百年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国幣小社に列せられた。 −『平成祭データ』− |
『和漢三才図会』にある「玉戸の窟」(玉殿の岩屋)が、
室堂ターミナルの近くにあり、写真を撮影する予定だったが、
下山して室堂へ到着した時には、バスの発車時刻が迫っていた。
室堂から下山する高原バスは、40分間隔で発車されるので、
これを逃すと、さらに40分待たなければならず、断念。
急いでバス待ちの列に並び、無事、乗車。
山頂で一時間の霧待ちをせず、とっととあきらめて下れば良かった。