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脇子八幡宮
わきごはちまんぐう
富山県下新川郡朝日町横尾966  Zenrin Data Com Maps display !!


笹龍胆


三つ巴

式外社 脇子神
旧県社

御祭神
譽田別尊
合祀 豐城入彦命 事代主神 北陸宮

富山県の朝日町にある。
北陸本線・泊駅の東2Kmほどの横尾に鎮座。
城山(149m)の西麓にあって、
8号線の横尾交差点に参道入口があり、東へ入る。

参道を進むと石の神明鳥居。
鳥居をくぐり、参道を進み、階段を上ると両部鳥居があり
鳥居扁額には「八幡宮」とある。
さらに参道階段を上ると社殿のある境内。

拝殿は瓦葺入母屋造。拝殿の後方奥にある本殿は神明造。
社殿の右手に鳥居が立っており、
奥の階段上には境内社の神明宮が祀られている。

参拝は10月初旬。天気の良い日の早朝。
深夜に長野を出発し、糸魚川で日の出を迎え、
8号線を西へ進んで到着した。

創祀年代は不詳。
社伝によると、大宝二年(702)、高向朝臣大足が当国へ下向し、
越中・越後の国境鎮護の神として、城山(脇子山、八幡山)に鎮祭した古社で、
『日本紀略』に寛平元年八月二十二日、従五位下を叙せられた脇子神とある式外社。

城山は現在、あさひ城山公園として整備され山上に宮崎城跡があるが、
宮崎城は木曽義仲に属する宮崎氏の居城。

治承四年(1180)、後白河天皇第三皇子である以仁王による
平家追討の令旨によって挙兵した木曽義仲は、
寿永二年(1183)、越中侵攻の際に、城主・宮崎太郎長康と共に、
以仁王の死後出家して越前国に逃れていた以仁王の第一王子・北陸宮を
この城に迎え入れて還俗と同時に元服させ、御所を作って
越中侵攻の足がかりとし、当社にて平家打倒の戦勝祈願が行なわせた。

その後、義仲は倶利伽羅峠で平家を破り、治承五年に上洛したが、
高倉天皇後の皇継承問題に介入して、後白河法皇と決裂して滅んでいった。

一説には、往古、当社は宮崎村の海上沖の島に鎮座していたが
義仲が北陸王を城に迎えるにあたり、城中に遷座したとも。

天正の頃、前田氏が境関所が設けられて宮崎城は廃城となって、
当社は山麓の泊に遷座し、泊の氏神として崇敬され、
前田藩は辛酉の年ごとに皇統の長久祈願のため金門鳥敏の祭を執行させ保護した。

享保二年(1717)高波のため泊町が大被害に遭い、
住民は200mほど離れた現在の場所に移転。
当社も享保五年、現在地に遷座された。

合祀の豊城入彦命は、崇神天皇の皇子。
当地の佐味族の祖神として宮崎山に祀られていたが
治承年間、当社に合祀された。

北陸宮は、元和二年より当地の石黒家が邸内に祀っていたが
文政十年に合祀された。
なお、北陸宮は京都で没したらしいが、
昭和になって分骨された墳墓が城山山上にある。

事代主神は、漁業守護の神として泊浦に祀られていたが
明治四十一年七月、当社に合祀された。

明治六年郷社に列し、昭和二十一年県社昇格が内定していたが終戦となった。
その後、正式には県社となっていないのかもしれないが、
『富山県神社誌』には旧県社と記されているので、それに従っておく。

当社の社号・脇子は「わきご」と読むが、語源は未確認。
『明治神社誌料』には八幡宮とのみ記されており、脇子神の記述はない。

『全国神社名鑑』には、当社の神紋は笹竜胆。
駐車場の案内板や、拝殿に笹竜胆の神紋が付けられていた。
当社ゆかりの木曽義仲の紋だが、関係あるのだろうか。
また、拝殿内の提灯にも笹竜胆が染められていたが
一緒に三つ巴紋も染められており、拝殿の屋根にも三つ巴紋がある。
八幡宮の神紋として、三つ巴紋も使用されているのかもしれない。

階段上の参道の左脇に、足跡の形の窪みのある石がある。
案内では弁慶の足跡。
弁慶が黒部山を一またぎにして、この石を踏みつけたとあるが
それにしては小さい足だ、などと思いながら参拝を終え、
8号線を西へ向かった。


境内入口

参道階段

階段途中の鳥居

階段上の境内

参道脇の石

弁慶の足跡

社殿


拝殿

拝殿右手に鳥居
奥に神明宮

神明宮から本殿

神明宮

越中越後国境鎮護
脇子八幡宮 旧県社
御祭神
主祭神誉田別尊(応神天皇)
豊城入彦命崇神天皇皇子・佐味族祖神)
北陸宮(後白河天皇御皇孫)
事代主神(恵比須様)
 古来当神社の八幡信仰は母が我が子を身がわりとし て産み、その子を抱き、慈愛をもって育む大愛にある。 また、八幡様は勝利をもたらす神と云われている。
御由緒
 大宝二年(七〇二年)高向朝臣大足が越中越後国境 鎮護の神として脇子の峰(城山)に鎮斎申し上げた。寛平 元年(八八九年)従五位下に叙され、雄山、二上山と 供に越中では叙位に与る三山の一つであった。
 治承年中源平合戦が始まり、木曽義仲は社殿近くに 御所を造り、北陸宮を奉り、元服を加え、脇子の峰の 当宮にて平家打倒の戦勝祈願が行なわれ、大勝利を収 めた。天正年中山を下り和倉にて泊町の氏神と仰がれ たが、享保年中高波の為、氏子と倶に此の地に遷り、 現在に至る。

−境内由緒書−



當神社ハ大寶ノ昔高向朝臣某 越中越後ノ国境鎮護ノ神トシ テ今ノ元屋敷ノ城山ニ鎮祭セ ルハ之創メニシテ當時脇子八 幡ト稱セリ後叙位ニ預カル治 承中源義仲社領近ク御所ヲ造 營シテ北陸宮ヲ置キ奉リ且宮 之従臣重秀ヲシテ武運長久ヲ 祈ラシム宮御上洛ノ後ハ宮崎 氏ノ一族崇奉セルカ天正中泊 町ニ勧請シテ氏神ト仰グ爾来 藩主前田氏ハ領國東涯ノ守護 神トシテ厚ク崇敬シ辛酉ノ年 毎ニ金門鳥敏ノ祭事ヲ修セシ メ又参観ノ途次廔々銀子ヲ供 進セラル

−境内石碑−



脇子八幡宮
武運長久祈願の宮脇子八幡宮のしおり
大宝二年高向(たかむこ)朝臣某が越中・越後の国境を改めるために来て、神濟川(かんわたりかわ)(今の境川)をもって境界とした。そこで国境鎮護の神を境川近くに祀る必要を痛感し、今の朝日町の城山に脇子八幡を祀った。脇子八幡には誉田別尊、即ち応神天皇が祀られた。当時この峯を脇子の峯と称した。御祭神は寛平元年に正六位上より従五位に叙せられた。
源義仲は平安時代の末に「平氏打倒」の令旨を受け、木曽に旗上げをし、剛の者宮崎太郎・次郎・三郎の住む宮崎に泊まったが、その時近くの脇子の峯に脇子八幡が祀られていることを聞き、わが源氏の氏神が祀られておられるのかと喜び、その傍に御殿を造り、時に義仲がお連れしていた後白河天皇の御孫で、以仁(もちひと)王の御子に住んでいただいた。義仲はその後引き返して信濃・越後で多くの兵を募り、寿永二年に大軍を率いて来、いよいよ都攻めの準備が完了した。そこで当宮に宝剣一振を献上して武運長久の祈願を行い、北陸宮(以仁王の御子は城山で元服をされ、北陸宮と称されておられた)を総大将として西へ攻めた。義仲が美事その目的を果たし得た後、当宮の社殿門をすべて改築し、感謝の意を表した。また御所は修築の上、城として用いられた。この城を宮崎城や泊城・境城と称した。城のあったために武士の参詣が多かった。上杉謙信もそのひとりで、彼は武運長久祈願をし、この時初めて江波・神保・椎名等を降伏させることができた。なお、治承年間に宮崎のサミの神を当宮に合祀している。この神は崇神天皇の皇子で豊城入彦命のことである。今日当地方に広く拡がり住んでいる佐味氏の祖神である。
天正のころ、この城には小塚権太夫が城主としており、家臣の水島兵庫を社殿に奉仕させていた。越中国に前田氏の勢力が及ぶと、この城を毀したので、その後は参詣者も稀となり、山麓の海岸に転築をした。このあたりに九戸の家があり泊と称していたが、当宮はこの泊の氏神と崇められることになった。前田藩はこの社を藩の東涯の守護神として境の関所の武士達に警備と営繕の責任を負わせていた。また社の前で市が開かれ、市祭が行なわれるようになった。町は次第に家数を増し、やがて山と海に挟まれたこの地が家を建てる空地もなくなり、隣接する西側の笹川沿いに移り住む者も多くなった。そのころの享保二年秋に日本海の高波で三百二十戸の一戸残らず大被害を蒙った。そこで二キロメータ程離れた今日の朝日町泊へ大部分が移動をし当宮も享保五年に御遷宮になった。藩の警備や営繕の責任者は移動後も関所の武士等であった。市祭は益々盛大になった。また藩は皇統が永く栄えん事を祈願するため当宮を選んで執行させた。これを金門鳥敏(かのとのとりとし)の祭と称した。辛酉の年に行なったので、この名がつけられ、これ以来もこの年(六十一年目)ごとに行なわれている。また、参勤の途次にしばしば銀子を奉納したり、樹木の伐採を禁止したりした。佐々木志頭摩に当宮の社号を揮毫させ献上した。これらは特に当宮を尊崇したことを伺せるものである。文政九年に石黒某が私邸に祀っていた北陸宮の御神像を当宮に合祀をした。明治四十三年に漁業守護の神として泊浦に祀られていた事代主神を当宮に合祀した。また当宮は明治六年に郷社に列せられ、同四十年には神饌幣帛供進神社に指定され、昭和二十一年には県社として認められるに至った。しかし、終戦によって神社に対する保護がなくなり、社格や幣帛料供進が撤廃され、当宮も勿論公的な性格を失った。しかし、現社地に御遷宮されてからだけでも二百数十年を経、うっそうたる森の中に御鎮座され、一千戸の氏子、それに数倍する崇敬者に尊崇され、いよいよ栄える現況である。なお、現社家は城山御鎮座当時にも神勤し、天正の頃四代九里知海が泊で別当となり、今日まで続いている家である。

−『平成祭データ』−



【 脇子八幡宮 (朝日町) 】

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