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佐志能神社
さしのじんじゃ
茨城県石岡市柿岡字高友北山4120  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 常陸國新治郡 佐志能神社
旧村社

御祭神
豊城入彦命 配祀 彦狹嶋命 日本武尊

茨城県石岡市(旧八郷町)にある。
石岡市役所八郷総合支社の北1Kmほどの柿岡に鎮座。
恋瀬川にかかる高友橋を渡り、まっすぐ進むと参道入口の神明鳥居。

入口の鳥居をくぐり参道をすすむと、もう一つの鳥居があり
さらに狭い階段を上ると、車道に出る。
その車道の先に境内があり、
入口の階段の脇には「聖徳太子尊」と刻まれた石碑が建っている。

数段の階段を上ると、枯葉に覆われた茶色の境内。
境内の奥(北側)に、社殿がある。

社殿は、瓦葺入母屋造の拝殿と、
拝殿の後方に本殿を納めた覆屋。
覆屋の上部、屋根の妻の位置に空間があり、
中の本殿の屋根が少し見える。
社殿の周囲には、いくつかの岩が転がっていたが
注連縄等で祀られている感じではなかったので、
磐座ということではないのだろう。

当社の背後には、前方後円墳の丸山古墳がある。
参拝後に少し歩いてみたが、
社前の案内によると全長55メートルという大きさらしい。

創祀年代は不詳。
一説に崇峻天皇元年(587)九月、神告によって創建されたという。

近世には白鳥明神とも高友明神とも称された神社で
式内社・佐志能神社の論社の一つ。

式内社・佐志能神社であれば、
『続日本後紀』に承和四年(837)三月に官社に預った古社。

ただし、当地高友は現在は新治郡だが、
古代においては茨城郡(茨城北郡)に属しており
式内社・佐志能神社としては有力ではない。

社前案内によると、丸山古墳は
当社祭神である豊城入彦命の奥津城(墓)と伝承されているらしく、
豊城入彦命の慰霊のために建てられた社であるとも伝えられている。

境内左手に横向きの小さな石祠の境内社が一つ。
『茨城県神社誌』によると浅間神社らしい。

また、境内には庚申供養や二十三夜講の石碑・石仏が並んでいる。


参道入口

鳥居

参道

境内

境内

社殿

社殿

史蹟・丸山古墳と佐志能神社
 高友の丸山丘陵の中央の丸山古墳と 佐志能神社は、大和朝廷の東国討伐に 大きな業績を残された第十代崇神天皇 第一皇子豊城入彦命の奥津城であり、 命を奉斎した杜として、古くから崇敬 され顕彰保存されてきた。
 昭和二十七年、丸山古墳の性格を学 術的に究明する必要から、明治大学の 後藤守一教授指導の下、高友部落民の 十日間の協力奉仕による発掘調査の結 果、前方後円墳(長五五米、高七・〇) で、後方部中央からは、ご遺体を納め た粘土棺が発見され、内行花文鏡をは じめ、銅鏃、勾玉、管玉、小玉、鉄刀 鉄剣等多数の遺品が副葬されていた。
 古墳の築造は、四世紀末から五世紀 初頭の頃と推定され、東国地方に於け る貴重な古墳であることが明らかにさ れた。(昭和二七・一二・一八県指定) 佐白塚古墳、二子塚古墳等のゆかり の古墳約三十基を丸山古墳群と称す。
 副葬品は八郷地域内の出土品と共に 柿岡考古博物館に保管、一般に展示公 開されている。

−社前案内板−



【 佐志能神社 (石岡市柿岡) 】

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