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熊野神社
くまのじんじゃ
群馬県安中市松井田町峠1  Zenrin Data Com Maps display !!
ひな曇り 碓氷の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも

三つ巴

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式内社 信濃國佐久郡 長倉神社
旧県社

御祭神

信州側 那智宮上信両国境 本宮上州側 新宮
事解男命伊邪那美命 日本武尊速玉男命

群馬県の安中市にある。
群馬県と長野県の県境にある碓氷峠に鎮座。
旧中山道の山道を歩いても参拝は出来るが、
通常は長野県側の軽井沢から車で5Kmほど上る。

鎮座地である峠は旧碓氷峠。
シルエイティが走っていた碓氷峠はもっと南にある。

この碓氷峠は県境にあり、当社も県境をまたいだ一つの境内に、
長野県側の熊野皇大神社と群馬県側の熊野神社(当社)が鎮座。
神主も二人いるという、ちょっと変わった神社なのだ。

以前、群馬県のある神社を参拝し、宮司とお話しした時に
面白いからと宮司に勧められた神社。
近いのでいつか参拝しようと思いながら数年たってしまった。
あの宮司はお元気だろうか。

碓氷峠にはいくつかの食事休憩処の店が並んでおり
旧中山道に面して、境内入口がある。
参拝は初夏の六月、社前の木々の薄緑の葉が茂っていて
鳥居の写真が上手く撮影できなかった。

鳥居をくぐると参道階段。
階段の両脇には、山椒魚のような形の狛犬。
階段を上ると随神門があり、扁額には「熊野皇大神」とある。
随神門の脇には、石の風車一対が置かれている。
軽井沢問屋佐藤市右衛門と代官佐藤平八郎の両人が
二世安楽を祈願して、明暦三年(1657)に築造。
その子市右衛門が佐藤家家紋の源氏車を刻んで奉納し
「碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると」
と追分節にも唄われたという。


社前

参道鳥居

参道階段

狛犬

狛犬

随神門

石の風車

石の風車

随神門をくぐると社殿のある境内。
右手の群馬側には当社・群馬県熊野神社の拝殿(神楽殿)があり、
左手の長野県側には長野県熊野皇大神社の拝殿がある。

また、正面には三棟並んだ社殿があり、
中央が群馬(上州)と長野(信州)にまたがった本宮。
右手の上州側には新宮、左手の信州側には那智宮が鎮座。
中門の手前に、左手に「熊野皇大神社」、右手に「熊野神社」と記された
社号標が建っている。

長野側の那智宮を熊野皇大神社が、
群馬側の新宮を当社・熊野神社が、中央の本宮を共同で管理しているのだろう。

社伝によると、第十二代景行天皇の頃、
日本武尊の東夷征伐凱旋の途中、武蔵、上野を経て坂本にさしかかった時、
荒ぶる山神が白鹿に化けて日本武尊を苦しめんと姿を現したが
蒜(ネギやノビルなどの植物)を白鹿の目に打付けて殺してしまった。

ところが、たちまち濃霧が発生して何も見えなくなり、道に迷われてしまった。
そこに一羽の八咫の烏が現れ、紀の国熊野山の椰の葉をくわえて来て、
日本武尊の御前に落とし前導するように飛んで行くので
八咫烏について行くと、無事に碓氷峠に到着した。
日本武尊は、熊野神霊の加護に感謝し、
この碓氷の嶺に熊野大神を勧請したのが当社の起源。
景行天皇四十年十月のことであるという。

碓氷の嶺に立った日本武尊は、雲海から海を連想され走水で入水された
弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬者耶」と嘆かれたという。

当社の鎮座する碓氷峠は中山道の要所にあり、
皇室公卿方をはじめ参勤交代の諸大名や一般通行の諸人なども当社に参拝した
道中の安全と家業の繁栄を祈願したという。
往昔には、新田義貞によって広大な神領を寄進され
西は信濃国長倉村鳥居原に、
東は上野国碓氷郡新堀村鳥居坂に大鳥居があったという。

「碓氷」という地名は、万葉集の「上野国歌」にあり
群馬県側(上野国)の方が有名で、日本武尊が苦労して登ったのも群馬側。
碓氷峠の熊野権現は、本来は上野国の神だったのかもしれない。

だが、「上野国神名帳」碓水郡に当社の名前はなく、
『明治神社誌料』熊野神社の項には、
元は長倉神社、長倉山熊野権現とも称していたとあって、
信濃国の式内社・長倉神社であると記されている。

思うに、峠の上に鎮座しているため冬季の参拝が不便となり、
また、碓氷峠の東側(群馬側)が寂れ、西側麓、長野県の軽井沢町が反映したため
軽井沢に里宮として祀られた時期があったのだろう。

その後、熊野皇大神と改称し、現在は熊野神社と称している。

祭神は、社前の案内板によると、
中央本宮に伊邪那美命と日本武尊を、群馬側新宮に速玉男命を祀っているとあり、
那智宮に関しては記されていない。

『明治神社誌料』には、日本武尊の名は無くて、那智宮の事解男命の名も載っている。
昔は、鎮座している県に関係なく、3つの宮全部を共同で管理していたのだろうか。

また、『平成祭データ』には、猿田彦命月讀命の名も載っている。


長野側熊野皇大神社拝殿

群馬側熊野神社拝殿(神楽殿)

境内

長野側に那智宮

群馬側に新宮

中央県境に本宮

那智宮本殿

新宮本殿

熊野神社の由緒
主祭神
新宮速玉男命群馬県鎮座
本宮伊邪那美命 日本武尊県境鎮座
御由緒
 当社は県境にあり、御由緒によれば、日本武尊が 東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれた時、 八咫烏の道案内によって無事嶺に達する事ができた ことより熊野の大神を祀ったと伝えられる。
 碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され走水 で入水された弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬者耶」と 嘆かれたという。(日本書紀より)
 これら御由緒より「日本太一」という烏牛王札が 古来から起請文や厄難消除の御神札として領布さ れている。
歴史大略
 鎌倉時代に武士団等の篤い信仰を受け、群馬県 最古の吊鐘(県重文)が松井田より奉納されている。
 江戸時代には諸大名を始め、多くの人々が中山道 を行き来した。関東の西端に位置し、西方浄土、 二世安楽、道中安全を叶える山岳聖地として、 権現信仰が最も盛んとなった。
 「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と旅人に 唄われ、追分節の元唄となって熊野信仰が全国に 伝わって行った。

−社頭案内板−



御由緒
十二代景行天皇の御代皇子日本武尊、東夷を征伐し武蔵上野を経て碓氷嶺に登り給う途、坂本に来られた。
其の時山に住む神が白鹿に化して手向いしたので、蒜を打つけて之をこらすと急に濃霧が立ちこめて真暗くなってしまった。
尊は進む事もならず迷っていると、一羽の八咫の烏が現れ、紀の国熊野山の椰の葉をくわえて来て、尊の御前に落とし前導するように飛んでいくのでそれについて山路をわけつつ遂に領土に達せられた。
暫く休んでいると、雲霧が次第に晴れて来て眼下に関八州の景観が展け遥か彼方にはかつて御通過の地常陸の筑波山が見え、其の先は雲か海かの風景である。
そこで相模灘で尊の御身代りとなって入水せられた后弟橘姫の事を偲ばれ「吾嬬者耶」と三度御嘆きになったという。この時尊は更にお考えになって先祖の神武天皇八咫烏の先導によって紀州熊野山を越え、大和の土賊を平定せられた。
今自分もここで八咫烏の導にあったのは正しく熊野神靈の御加護によったのであると当熊野三社を奉祀せられたという。時に景行天皇四十年十月であったと伝えられている。
世上の信仰
古くは建久四年源頼朝公浅間御狩りの際、長雨に悩まされ当社へ晴天を祈願して上矢を奉納せられた。
新田義貞公は深く当社を崇敬せられ神領として、東は上州碓氷郡新堀村鳥井坂(現軽井沢町鳥井坂)、西は信州佐久郡鳥井原村(現軽井沢町鳥井原)に各大鳥井を建て、其の間東西六里余りを寄進せられた。
其の後、武田氏之をうけついだが同氏が亡びると共に之も消滅した。
徳川時代となり、中仙道の通行盛んな頃となっては皇室公卿方をはじめ参勤交代の諸大名、一般通行の諸人ひきもきらず社前に額づいて道中安全と家業の繁栄を祈願した。
追分節に「碓氷峠の権現様はわしの為には守り神」とうたわれて、皆其の御神徳を仰いだのである。
尚当社は古来農作増産の守護神として農家の信仰厚く、毎春当社の神符と農作物の御みくじを受けて増産を祈願する。
又講社を組織して毎年代参し神楽を奉納する。
講社は信州・上州・武州・甲州の諸国に及び、毎年四月はこの講中の代参で賑わう。
又毎年五月第二日曜日に日本最古「安政遠足」が行われている。

−『平成祭データ』−


三棟の本殿の左右に境内社の祠が並び
背後には小さな石祠が多く祀られている。
各境内社の名前は未確認だが、
明治の境内図によると、
長野県側那智宮の左に、十二社、山神社、荒神社、矢立社、日本武社。
群馬県側新宮の右には、菅原社、稲荷社、大日社、柱神社の名がある。
現在、新宮の右ての稲荷社の右に健康神社が祀られ、
文和三年(1354)建立の多宝塔などがある。

『明治神社誌料』の
群馬県熊野神社の項には境内社として
皇子神社、八坂神社、菅原神社、稲荷神社、水神社、浅間神社、
若宮神社、風神社、八幡宮、諏訪神社、大山祇神社の名が、
長野県熊野皇大神社の項には境内社として
若宮神社、十二神社、荒神社、矢立社、山神社・稲生社合殿とある。

この若宮社(日本武社)は、日本武尊を祀っている社で、
日本武尊が「吾嬬者耶」と嘆かれた場所にあったらしい。
今は石碑が建っている場所か。

昔から有名な碓氷峠なので、句碑などもいくつか。
参道の鳥居の脇に山口誓子の句碑、境内には杉浦翠子歌碑がある。
また、境内左手には、大きくて見事な樹齢八百年のシナノキがある。

群馬県側の新宮には群馬県内最古の古鐘がある。
鎌倉時代の正応五年(1292)
松井田の衆によって二世安楽を願って奉納されたものらしい。


那智宮横の境内社

新宮横の境内社

長野県側にシナノキ

山口誓子句碑

日本武尊「吾嬬者耶」咏嘆の処の石碑

杉浦翠子歌碑

多宝塔

軽井沢から碓氷峠に上った道、当社の少し手前に
碓氷貞光を祀った小さな石祠(碓氷貞光霊社)がある。
当社から東へ進んだ旧中山道にも碓氷貞光を祀った祠があるらしい。

碓氷貞光は、平安時代中期、源頼光の家臣(四天王)の一人として
大江山の酒呑童子を退治した人物。
碓氷峠出身として祀られているが、相模国出身とする説もあるらしい。


碓氷貞光霊社


【 熊野神社 (碓氷峠) 】

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