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船橋大神宮
ふなばしだいじんぐう
千葉県船橋市宮本5−2−1  Zenrin Data Com Maps display !!


八咫鏡

式内社 下總國葛餝郡 意富比神社
旧県社

御祭神
天照坐皇大御神
配祀 萬幡豊秋津姫命 天手力雄命

千葉県船橋市にある。
京成電鉄・大神宮下駅の北東100mほどに境内がある。

境内入口は南西向き。
僕は駐車場に車を止めて参拝したので、参道の途中からしか知らないが
100m以上はありそうな長い参道が延びている。

参道を歩くと石の神明鳥居があり、突き当たりに社殿。
参拝は神門の位置で行うが、神門から奥の拝殿が見える。
その拝殿の後方に本殿があるはずだが未確認。

当社に到着した時刻は、日の出の頃。
参道の灯籠にも明かりが灯っていた。
そんな時刻なので、御朱印はあきらめて境内を散策していたが
奥へ通じると思われる道の門が閉じられていた。

だから、境内をすべて見て歩くこともできなかったし
社殿の様子もわからず。
さらに、文化財の灯明台の写真もない。
いつか再度参拝しようと思いながら、なかなか予定が立たないので
とりあえず、掲載しておくことにした。
灯明台の場所は、覆宮塚と呼ばれた円墳らしいのだが。

当社の通称は「船橋大神宮」で、参道の社号標にも刻まれているが
正式名称は「意富比神社」。
一般的には船橋大神宮の方が有名なので、当サイトでも船橋大神宮と記しておく。

式内社・意富比神社に比定される古社。

社伝によると、景行天皇の御代四十年、
皇子・日本武尊東征の途次、船橋湊郷に御到着なされ、
東国平定の目的成就を御祈願なされたのを以て創建された。

また、大干ばつで当地方の人々が苦しんでいたので
日本武尊が、伊勢神宮を拝祭して征夷と降雨を祈願したところ、
忽然と黒雨が降り、人々は歓喜した。

その後、北方の夏見の地に遷され、さらに現在地に遷座。
以来、朝廷・将軍家などより御崇敬極めて篤く、
近衛院の時(仁平年間)、船橋六郷の地寄進の院宣を賜り、
源義朝は、これを報じて当社を再興した。
この文書には、当社は「船橋伊勢大神宮」と記されていた。

一説には、式内社・意富比神社が存在していた地の近くに
伊勢神宮の神領(船橋御厨、夏目御厨とも)が設定されて神明宮が創建され、
後に、意富比神社と神明宮が合体したのが当社であるという説もある。

明治五年県社に列し、
明治・大正・昭和と造改築が行われ現在に至る。

「意富比」の社号からか、南西向きのためか、伊勢神宮に対するものか
当社は「夕日の宮」とも呼ばれているらしい。

当社の神紋は、八咫の鏡。
天照皇大神を示す紋だと思う。

境内には多くの境内社が祀られている。神社辞典には二十四社とある。
あいにく参道の門が閉まっていたので、すべてを確認できなかったのが残念。

確認できたのは以下の社。
水天宮、稲荷神社、秋葉神社・古峯神社、
八坂神社。八劔神社、金刀比羅社。

八幡神社、竈神社、龍神社、道祖神社、客人神社・多賀神社。
岩島神社・住吉神社、祓所神社・春日神社、香取神社・鹿島神社、
玉前神社・安房神社、天満宮・天神社。

粟島神社・根神社、阿夫利神社・大山祇神社、
事代主神社・大國主神社、水神神社・産霊神社。
猿田比古神社石碑、三峯神社。

大鳥神社、天之御柱宮、外宮。
外宮の左横にもう一つあったが社名は未確認。

他にもいくつかの境内社があるらしい。
『平成祭データ』には上記の他に、常磐神社、浅間神社、八雲神社の名がある。


鳥居

参道

鳥居

境内、神門

神門から拝殿

閉じた門、奥に鳥居がある





水天宮、稲荷神社、
秋葉神社・古峯神社、
八坂神社、八劔神社、金刀比羅社

八幡神社、竈神社、龍神社、
道祖神社、客人神社・多賀神社、
岩島神社・住吉神社、
祓所神社・春日神社、
香取神社・鹿島神社、
玉前神社・安房神社、
天満宮・天神社

粟島神社・根神社、
阿夫利神社・大山祇神社、
事代主神社・大國主神社、
水神神社・産霊神社、
猿田比古神社石碑、三峯神社





大鳥神社

天之御柱宮

外宮

船橋大神宮(意富比神社)由緒
景行天皇の御代四十年に皇子日本武尊が東国 御平定の途次此の地に至らせられ、伊勢皇大 神宮の御分霊を奉斎なされ、同五十三年に、 天皇御東行の砌、日本武尊の御事蹟を御追憾  意富比神社の称号を賜る。
後冷泉天皇御代天喜年間には源義家、頼義、 両朝臣当宮を修造せられ、亦、仁平元年には船 橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝之 を奉して当宮を再興、其の文書には船橋伊勢 皇大神宮とある。
日蓮上人は宗旨の興隆発展成就の為当宮に て断食祈願を行い、徳川家康公は社領を寄せ られ奉行をして本殿、諸末社を御造営せしめ 近く明治天皇陛下には習志野、三里塚へ行幸 の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠遊ばされ る。
現在の御社殿は維新の戦火に罹災後、明治 七年に本殿、同二十二年に拝殿が竣工し以後 大正十二年、昭和三十八年、同五十年に各々 社殿、末社、鳥居、玉垣等に至る迄の大改修 或いは御神泉の奉納、灯明台(県民俗資料指 定)の修復等を経ている。

−境内石碑−



船橋大神宮の由来
当船橋大神宮は、景行天皇の御代四十年に、皇子日本武尊が御東征の途次、船橋湊郷に到着なされ、東国平定の目的成就を御祈願なされたのを以てその御創建とします。当時隅々住民が旱天に苦しんで居り、尊は併せて祈雨の由を念じられますと、一天俄にかき曇り雷雨起り、土地が潤ったと言われて居ります。其後、景行天皇東国へ御巡幸の折、その御事績を御追憾なされて「意富比神社」の御社号を賜り、後には延喜式にも記載されて居ります。以来、朝廷・将軍家などより御崇敬極めて篤く、清和天皇貞観十三年三月には、勅願により天下泰平・五穀豊饒を御祈念なされるため奉幣使の下向あり、また後冷泉天皇の御代天喜年間には源頼義・義家の両朝臣当宮を修造し、また仁平年間には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝之を奉じて当宮を再興されましたが、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。また鎌倉時代、日蓮上人は篤く当宮を崇敬され、自己の宗旨興隆発展のため断食祈願の上自筆の曼荼羅と剣を御奉納されました。降って徳川家康公は社領を御寄進、伊奈備前守忠次を奉行として摂末社を御造営せしめました。以後、徳川十五代に亘る間各々に五十石の禄高を献納されて居りました。更に、明治天皇陛下には習志野練兵場、三里塚御料牧場へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠なされました。旧社殿における祭典の様は、江戸名所図会にも描かれて居りますが、明治維新の戦火によって焼失し、其後明治六年(本殿)、同二十二年(拝殿)と順次御造営せられ、以後大正十二年、昭和三十六年、更に昭和五十年と各々に本殿、拝殿、末社、玉垣、参道、大鳥居などの改修を経て今日に及んで居ります。

−『平成祭データ』−



【 船橋大神宮 意富比神社 (船橋市) 】

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