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妙義神社
みょうぎじんじゃ
群馬県富岡市妙義町妙義6  Zenrin Data Com Maps display !!


八重菊

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旧県社

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御祭神
日本武尊倭建命
配祀
菅原道眞公 権大納言長親卿
豊受大神(あるいは 丹生都姫命
合祀
建御名方命 素盞嗚命 國常立命
八衢比古命 八衢比賣命 大國主命
彌種継命 大地主命 大己貴命 疱瘡神
伊邪那美命 大日孁尊 祭神不詳

群馬県の富岡市(旧妙義町)にある。信越本線・松井田駅の西4Kmほど、
上越自動車道の松井田妙義I.C.の南2Kmほどの妙義に鎮座。
196号線を進むと、右手に褐色の大きな鳥居が立っており、すぐ近くに道の駅。
境内は妙義山系の白雲山の東麓。道の駅から白雲山がよく見える。

妙義山は、富岡市・安中市・下仁田町の境界に聳え、
奇岩・奇峯の連続する上毛三山の一つ。
大きくは白雲山・金洞山・金鶏山の三山の総称。
さらに相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷急山などを合わせて妙義山と呼ぶ。
当社妙義神社は、その白雲山を神体とする神社。


道の駅から白雲山

妙義神社境内の妙義山案内図

鳥居をくぐり緩やかな参道坂道を上って行くと、
目の前に聳える白雲山の中腹に「大」の文字が見えてくる。
この「大」の字は妙義大権現の「大」。
中山道を歩く人々の遥拝の目標とされたらしい。
境内の案内によりと、境内から大の字まで50分。
大の字から当社の奥の院まで40分程度らしい。
昔なら奥の院まで登っていたはずだが、最近、体力の衰退を自覚しだしたので
今回の参拝では奥の院まで参拝していない。
今考えるとちょっと後悔。暖かくなったら登ってみたい。

白雲山を眺めながら参道を進むと朱塗りの立派な総門。
この総門は、かつて当社の別当であった石塔寺の仁王門だったもの。
総門から左手に参道を進み、階段を上ると銅の鳥居。
銅鳥居の扁額には「白雲山」とあった。

銅鳥居をくぐった右手に旧波己曽社殿。
宝暦六年、現在の妙義神社本社が建立された時に旧社殿を波己曽社としたもの。
以前はは、妙義神社本社社殿の右手にあったようだが、
昭和四十四年現在地に復元された。

参道をまっすぐ進み、さらに階段を上ると随神門。
随神門をくるぐと、石垣の上、垣に囲まれた境内があり、
中央部東側に唐門、南に南門、北に北門。
中央の唐門の奥に、復旧された当社の権現造の社殿がある。
黒を基調に金の細工や彩色された彫刻が美しい。

本殿の後方には天狗社が祀られ、天狗面が置かれていた。
また、本殿の右手(北側)にはいくつかの岩がある。
『日本の神々』には、境内に影向岩があると記されているが、この岩だろうか。
あるいは、境内右手の参道脇にある大岩のことだろうか。

長野に引っ越してのち、当社へも参拝したのだが、
その時はカメラを持参しておらず、近くなので、すぐに再訪するつもりだったが、
平成十九年九月の台風により、当社の社殿が被害を受け、
復旧工事が終了したのが平成二十四年十二月。
その一年後の年末に参拝してみた。

妙義の名は、後醍醐天皇に仕えた権大納言藤原長親がこの地に住み、
明々巍々たる山の奇勝から「明巍」と名付けたものが、
後世「妙義」へと変化したものらしい。

創祀年代は不詳。
一説には宣化天皇の二年、または欽明天皇の御宇の創建という。
あるいは、権大納言藤原長親による創設とも、妙義法師・法性房尊意の創建とも。

古くは波己曾明神と称し、
『三代実録』の貞観元年(859)三月二十六日に、
「授上野國正六位上波己曾神從五位下」とあり
『上野国神階帳』に「従二位 波己曾大明神」とある古社。

妙義山の中の白雲山周辺の地は「七波己曾」と呼ばれ、
山麓に波己曾神社が分布して、丹生都姫命を祀っていたらしい。
本来、当社も波己曾神を主祭神としていたが、
いつの頃か、別に妙義大権現が成立して、本社となり、
波己曾神は境内社に遷された状態になったようだ。

ということは、当社の元の主祭神、地主神は丹生都姫命であり、
『平成祭データ』などには祭神の中に名が記されているのだが、
境内の由緒では、豊受大神となっている。

また、妙義山の中の金洞山には、倭建命を祀る中之嶽神社が鎮座。
さらに、妙義山の中の金鶏山には、菅原道眞を祀る菅原神社が鎮座しており、
当社は、これら妙義山の三山(白雲山・金洞山・金鶏山)の神々を合わせ祀った状態になっている。
ただし、現在、波己曾神社の祭神は倭建命なのだが。

当社の社格に関して、『明治神社誌料』には郷社として記されているが、
『全国神社名鑑』には明治初期に県社に列したとある。

総門の左手に妙義神社の大杉の跡がある。
昭和四十六年に倒壊した元国指定天然記念物。
その脇に和歌三神社(玉津島神社、人丸神社、住吉神社)と稲荷神社。
本殿後方に天狗社。境内北側には水神社や愛宕社などの石祠。
旧波己曽社殿の脇に厳島神社など、境内にはいくつかの境内社が祀られている。

旧波己曽社殿から右手に行くと社務所と旧宮様御殿。
富岡市指定文化財になっているらしい。


社頭

鳥居

参道

参道から白雲山

中腹に大の字

参道

総門

参道は左手へ

大杉跡

和歌三社と稲荷社

銅鳥居

銅鳥居右手に旧波己曽社殿

旧波己曽社殿

銅鳥居と旧波己曽社殿

旧波己曽社殿

本社への参道階段

階段上に随身門

石垣の上に唐門

唐門

社殿

本社社殿と境内

本殿

拝殿

本殿と岩

本殿後方に天狗社

北門近くの大岩

水神社

愛宕社

参道脇の大岩

木の下に何か祀られてる

社務所と旧宮様御殿

国定公園妙義神社と妙義山
妙義神社略記
鎮座地
群馬県甘楽郡妙義町妙義
御祭神
日本武尊、豊受大神、菅原道真公、権大納言長親卿
祭日
例祭・四月十五日、山開き祭・五月五日、紅葉祭・十一月三日。
妙義神社は奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景勝の地を占めている。
創建は「宣化天皇の二年(今から千四百余年前)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽の大神と称し後に妙義と改められた。
そもそも妙義と云う所以は、後醍醐天皇に仕へ奉りし権大納言長親卿、此の地に住み給いて明明魏魏たる山の奇勝をめで、明魏と名づけしものを後世妙義と改めたと思われる。
古くより朝野の崇敬殊に篤く、開運、商売繁盛の神、火防の神、学業児童の神、縁結びの神、農耕桑蚕の神として広く世に知られ、関東、甲信越地区より参拝するものが多い。
江戸時代は歴代将軍を始め、加賀の前田公外諸大名の崇敬篤く、中古よりは上野東叡山の宮、御代々御兼帯御親祭の神社となりその御宿坊を宮様御殿叉は単に御殿とも称した。
この御殿よりの、東面の景色は素晴しく、前庭の植え込みは何れも低く地をはうようにつくられ、関東平野を一望に集め借景庭園として見事なものである。
本殿拝殿を初めとする境内の諸建造物は、今から三百余年前から二百年前の間の建造物にして、江戸時代建築の趣をもった壮麗なもので、老杉の巨木鬱蒼たる神域に、輪奐の美を連ね、高さ十メートルの旧御殿下の石垣をはじめとする各所の石垣はその技工の巧なること比い無く、諸建造物、青銅の大鳥居と共に、文化財に指定されている。
現在妙義神社に所蔵している宝物は、国指定重要文化財の絵巻物を始めとして絵画、彫刻、筆跡、金工芸、石器、化石等の外、舶来の珍品逸品に至るまで多数あり、常時展示観覧に供されている。
尚妙義全山が国指定の名勝並に国定公園で新緑、紅葉の季の美観は格別である。
従って妙義は信仰の山であり、私共の祖先の残してくれた文化財の宝庫であり、又観光の山でもあり登拝者も年々増加の一途をたどりつつある。

−『平成祭データ』−



【 妙義神社 (富岡市) 】

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