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吉田神社
よしだじんじゃ
京都府京都市左京区吉田神楽岡町
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京都大学の近く、神楽岡(吉田山公園)にあり神域は広い。
東大路から東一条通を東へ進むと、鳥居。
参道の階段を上ると境内がある。
境内は広く、境内社も多い。
本殿は四棟並んだ春日造り。中門から拝する。
一説には、永延元年、山蔭中納言(藤原山蔭)により創祀。
社伝では貞観年元年の勧請とする。
藤原氏の氏神で、平城京に春日大社、長岡京に大原野神社、
そして平安京に当社・吉田神社が祭られたという。
二十二社の一社に数えられ、
延文五年(1360)正一位を授けられた。
当初は、吉田二本松町辺りにあったらしいが
文明年中(1469〜87)、現在地に遷座したという。
文明十六年吉田兼?によって設けられた吉田神道根本霊場である「大元宮」には
式内社三一三二座すべてが祀られている。お得。
節分祭が有名で、疫神祭・追儺式・火炉祭の儀など。
東一条通の鳥居 | 参道の鳥居 |
境内 |
神鹿像 | さざれ石 |
境内の鳥居 | 中門 |
四棟の本殿 |
吉田神社 祭神として、健御賀豆智命・伊波比主命・ 天之子八根命・比売神の四神を祀る。 貞観元年(八五九)藤原山蔭卿が平安の鎮守神として 藤原氏の氏神である奈良の春日社四神を勧請したのが 当社のはじめである。以来人々の信仰厚く、式外社ではある が二十二社に加えられ、延文元年(一三五六)正一位の神階 を授けられた。ついで室町時代の中頃神官吉田(卜部) 兼倶が吉田神道(唯一神道)を大成し、東南山上に 斎場所太元宮を造営してから、吉田流神道の総家と して明治に至るまで神道界に大きな権威をもっていた。 本殿は慶安年間(一六四八〜一六五一)の建築で朱塗 春日造りである。このほか四脚中門・御廟・神供所などがある。 境内には太元宮のほか、末社・攝社が多く、中でも神楽 岡社は「延喜式」にも記載された地主神として、また雷除 神として有名である。神竜社には吉田兼倶を祀っている。 祭礼のうち節分祭(毎年節分の当日を中心に前夜 三日間にわたって本宮および太元宮で行われる)は疫神祭・ 追儺式・火炉祭の三部に分れ、室町時代以来の伝統 をほこる神事で多数の参詣者で賑う。 −境内案内より− |
【 吉田神社 (京都) 】