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鷹野神社
たかのじんじゃ
兵庫県豊岡市竹野町竹野馬場町84−1  Zenrin Data Com Maps display !!


梅鉢

式内社 但馬國美含郡 鷹野神社
旧郷社

御祭神
武甕槌神
配祀 天穗日命 天滿大自在天神
合祀  須佐之男命 建御雷命 伊波比主命 五男三女神

兵庫県豊岡市にある。
山陰本線・竹野駅の北東1.5Kmほどの竹野に鎮座。
1号線を北東に進み、竹野川を越えて竹野浜海水浴場へ向かうと
海の200mほど手前、道路脇に境内がある。

竹野川の河口部、海水浴場の近くにあり、
通称は「浜の天神さん」というらしい。

ハッキリとは覚えていないが、たぶん、境内入口は南向き。
参道脇に由緒書きの石碑があり、参道には石鳥居。
鳥居の左脇に「式内鷹野神社」と刻まれた社号標。

鳥居をくぐり松波木野参道を進むと
「鷹野神社」と染められた幟幡が並んでいた。
参拝は五月三日だったが、春季例祭の名残りだろうか。

境内は狭いのだが、梅鉢紋が染まられた幟や提灯が並んで
賑やかな雰囲気の神社だった。

参道を進むと、正面に瓦葺入母屋造の拝殿。
後方の本殿は、銅板葺の流造。

創祀年代は不詳だが、
式内社・鷹野神社に比定されている神社。

竹野鎮座のため、「タケノ」神社とも呼ばれるらしい。
竹野は、但遲摩(但馬)国造とされる
竹別(竹野別:タケノワケ)の居住地であったらしく、
当社は、竹別氏族の移住により創建されたといわれ
本来の祭神も、竹野別命・当芸志比古命とも考えられる。

もともと「天ツ神」を祀る天神であったが
後に菅原道真が合祀され、
天満天神を祀る天神さんと称されるようになったという。

現在地の西400mほどの竹野浜と砂洲の連接した
小島(賀島山)に鎮座していたという伝承があるらしく
当社は、かつて加嶋天神と呼ばれていたとか。
鹿嶋神を祀る当社の元社地であった可能性はある。

万治三年、当社を含めて竹野部落が焼失。
天明年間にも社殿が焼失したという。

江戸時代には、武神を祀る神社として
出石・豊岡両藩の武士階級に崇敬され、
武運長久を祈願して、度々の参詣があった。

明治六年十月郷社に列し、
明治三十六年、三柱神社、荒神社を合祀した。

道路を挟んで、以下の境内社が並んでいる。
奉攸伊垣大明神守護、稲荷社(倉稲魂命)、舟霊社(猿田彦命)。

『式内社調査報告』には他に
山神社、貴布神社(闇龗)、地神社(埴安姫命)、
西宮大神社(事代主命)の名が載っている。


社頭

鳥居

参道

境内

道を挟んで境内社

奉攸伊垣大明神守護

稲荷社

舟霊社

社殿

式内 鷹野神社
御祭神
主祭神武甕槌神
相殿神天穂日命
天満大自在天神(菅原道真公)
神社合併による御祭神
須佐之男命 建御雷命
伊波比主命 五男三女神
御由緒
 当社は延喜式神名帳に載っている古社 である。
 御祭神については武甕槌神(天つ神) を天孫系神族として尊崇し、御神威をあ がめて出雲系神族(国つ神)を制御する ため鎮祭されたと伝えられている。
 後世に至り菅原道真公の怨霊を恐れる とともにその卓抜して文徳をあげめ、文 道の神として天神信仰が広がった。
 当社も道真公を相殿に奉斉し、ご神紋 も梅鉢を用い、浜の天神さんとして親し まれている。

−社頭由緒石碑−



鷹野神社 御由緒
当神社の創立年月については不詳であるが、古事記によると第四代懿徳天皇の第二皇子当芸志比古命は多遅麻の竹別の祖と記されている。多遅麻之竹別については和名類聚抄(略して和名抄二十巻)には「但馬国美含郡竹野郷がある」と書かれている。和名抄は延長年中に源順が醍醐天皇の第四皇女勤子内親王の命を奉じて撰述した古書であり、竹野別はたかの別とよんだのであり但馬国には竹という地名はその他の文書に見えないから現在の竹野浜部落で、その氏族が居住していたための地名であると考えることができる。同じく醍醐天皇の延長五年に「延喜式」神名帳が撰修せられ、その巻一〇に「但馬国一三一座、美含郡一二座鷹野神社」とあるから、延喜の制に小社に列せられた式内官社である。
御祭神については、「神名帳考証」「但馬式社改納帳」「旧事本記」「神祇志料」「特選神名帳」「但馬考」等には諸説がのせられているが武甕槌神を御祭神として奉斎しているのであって、社家大浜家の伝承にも竹野は「たかの」と言い、古来より加島宮天神、浜の天神と称して、武甕槌神を天つ神、即ち天孫系神族として尊崇し御神威をあがめて、出雲系神族を制御するため鎮祭されたと伝えている。古事記によると大国主神が出雲国の伊那佐の小浜における国譲りの折衝に天孫系神族の代表としてその使者に選ばれた武甕槌神が大国主神との談判が成立の後、出雲系神族に対して御神威を示され、天孫神系の神に帰一することを誓約されているから、武甕槌神はこの竹野郷に神降りまし居住民族が祖神当芸志比古命も天孫神系の神であるため氏神として奉斎するに至ったと考えられる。武甕槌神は鹿島神社の主祭神として鎮護されたため、神降りましたと伝えられる所が神の誕生浦といい、鹿島の神である武甕槌神を鎮祭した島を加島山と称したと伝えられている。後に竹野浜即ち現在位置に移されたといわれている。
なお国譲りの談判成立後大国主神は八十隈にかくれられ、天穂日命によって大国主神の大前を祀らしめられたという古事記の記事により天穂日命が出雲系神族の代表として併せて相殿に奉斎されたものと考えられる。その後中古に至り、菅原道真公の怨霊を怖れて全国各地に天満宮が鎮祭され、天満宮が鎮祭され、天満宮信仰が広まったため、天神と天満宮とを混同する風が生じたため、天満天神の御神徳もあがめて相殿に奉斎し、神紋も梅鉢を用い、境内に牛の像を奉献したものと考えられる。但馬考は「笑うべきことだ」と記している。或は当芸志比古命を祖神とする竹野別の氏族が後に竹野郷に移住してきたが、すでに原住民によって武甕槌神が鎮祭されていたため、鷹野神社から少し離れた初日(宇日)の丘に当芸志比古命の同一神族である宇比売神を奉斎して宇日神社とし、鷹野神社の別宮としたと考えられる。
祖神を氏神としないで、天孫神族の代表として武甕槌神を氏神として鎮祭したという伝承もある。
万治三年に社殿より火を失して社殿はもとより全部落失し、その時社記、古記録を失ってその資料の微すべきものがないが寛延二年刊行の大枝流芳の「貝尽浦の錦」には竹野浜を紀伊の和歌の浦、河内の住吉浦と共に日本浜三景の一つに数えられ、但馬竹野浦真図をのせて、その図に「加島」「誕生」と共に竹野浜に「天神社」の壮大な社殿をえがいている。
江戸時代出石藩の崇敬特に篤く、山名、小出の藩主は度々参拝して随神門、鳥居が奉献され、武運長久を祈請された記録が残っている。
明治六年社格の制定と共に郷社に列せられ、明治三十七年に当部落に鎮祭されていた三柱神社、荒神社を合併して、その祭神を併せて奉斎している。

−『平成祭データ』−



【 鷹野神社 (豊岡市) 】

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