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伊豆山神社
いずさんじんじゃ
静岡県熱海市伊豆山上野地の1  Zenrin Data Com Maps display !!


九曜

式内社 伊豆國田方郡 火牟須比命神社
旧國幣小社

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御祭神
伊豆山神火牟須比命伊邪那岐命伊邪那美命

境内 式内社 伊豆國田方郡 火牟須比命神社
摂社 雷電社 火牟須比命荒魂 雷電童子

静岡県熱海市にある。
熱海駅の東北1.5Kmにある伊豆山に鎮座。
熱海駅から当社までの道を、言葉で説明するのは難しいので割愛。
伊豆山子恋の森公園の南側にあるとだけ記しておく。

車道に面して境内入口は南側にある。
が、地図を見ると、入口から南に真っ直ぐな道が延びており、
港近くの135号線から、階段の参道が続いているようだ。

とにかく、入口の鳥居脇にある駐車場に車を止めて参拝開始。
階段を上ると銅製の鳥居が立ち、参道の左右に幾つかの境内社。
さらに登ると、広い境内。

参道中央に舞台があり、その奥に、赤い社殿。
稲荷の朱とは違う、濃い赤で、どっしりとした雰囲気。
拝殿の後方に、これも赤い流造の本殿が立っている。

創祀年代は不詳。

関八州総鎮守として伊豆山大権現と尊称された神社。
伊豆・箱根周辺の温泉守護神として、さらに、
鎮火の神として崇敬された古社。

往昔、日金山(久地良山、十国峠あたり)に鎮座していたという。
伊豆の高嶺とも呼ばれた日金山は、常に猛火を吹き上げ、
火之峰(ほがね)、許々比之森(ここひのもり)とも称し
火の神への信仰を起源とするらしい。

後、日金山より四十丁ほど下った牟須比峯(七尾あたり)に、
新たに御社を建て、中の本宮と称し、
日金山の社を上の本宮とした。

さらに、現在地に遷座(三遷)し、新宮として、
伊豆権現・走湯権現と称するようになった。

しかしながら、火の山への信仰であるならば、
山頂に神社があったとは考えにくく
牟須比峯(中の本宮)が本来の位置であろうと思われる。

式内社・火牟須比命神社の論社の一つだが、これには諸説ある。
一つは、当社・伊豆山神社とする説。
一つは、境内摂社である雷電社とする説。
さらに、古社地である中の本宮を火牟須比命神社とする説。
要するに、伊豆山神社のオリジナルは何か、
あるいは何処かという問題。

当社は、神仏習合の神社であり、仏教色、
特に修験道の色合いが濃厚であったが、
明治になって、権現号が廃され、現社号へ改称された。

当社の神紋は、九曜紋。
星辰信仰に関連する紋だが、修験道と関係するのだろうか。

境内の左手には、頼朝と政子が恋を語らった腰掛石がある。


境内入口

入口の鳥居

参道の鳥居

境内

境内社殿

本殿

社殿

拝殿

白山社遥拝所

当社の境内社は以下の通り。

参道を登ると、右手に末社・足立権現社。
祭神は、修験道の祖である役小角(神変大菩薩)。
文武天皇の御宇、捕らえられて伊豆大島に流されたが、
夜は飛行の術を駆使して、当社へ飛んで来て修行を重ねたという。
運命開拓の神で、足の病に霊験あり。
祠の中には、木彫りの役小角像がある。

さらに登ると、左手に末社・結明神社。
祭神は、結明神(日精・月精)。
本社は、子恋の森公園上(七尾)にあり、当社は里宮らしい。
景行天皇三十一年、久地良山(日金山)に大杉があり、
その中から一男一女が誕生した。
初島・初木神社の祭神・初木姫が育てたところ、
男は日精、女は月精と生長し、
夫婦となって、日金山に仕え「伊豆権現氏人之祖」となった。
二人は、不知(富士山)から神上がり、
結明神と称されるようになった。縁結びの神である。

階段を上りきると、左手に摂社・雷電社。
祭神は、火牟須比命荒魂、雷電童子だが、以下の神々を合祀。
伊邪那岐命伊邪那美命菅原道眞
奧津比古命奧津比賣命泉津事解之男命速玉之男命大海津美命
上記のごとく、式内社・火牟須比命神社の論社の一つ。
吾妻鏡に「光の宮」記された神社で、火伏せの神、電気の神である。

境内右手から、子恋の森公園へ続く道を登ると、
末社・白山社があるが、今回は参拝していない。
祭神は、菊理媛命と伊豆大神奇魂。

さらに、中の本宮の位置に、摂社・本宮社(伊豆山神)。
飛地境内に、摂社・走湯社(走湯大神)がある。


足立権現社

結明神社

役小角

雷電社

腰掛石

関八州総鎮護
伊豆山神社
御祭神伊豆山大神(火牟須比命伊邪那岐命伊邪那美命
例祭日四月十五日
鎮座地境内は古来歌枕に名高い伊豆の御山、子恋の森の一部で約四万坪、海抜百七十メートル
御由緒 当社は古来伊豆大権現、走湯大権現、又は伊豆御宮、 走湯山とも呼ばれていましたが、明治の神仏分離令 により現在の社名に改称されました。
又、伊豆の地名の発祥地は当社であります。
社伝によると当社は最初、日金山(万葉集にいう伊 豆の高嶺)に鎮まり、次いで本宮山に移り、さらに 三遷して現在の地に御鎮座になりました。
源頼朝は平治の乱の後、平家の手により伊豆の蛭ヶ 小島に配流の身となっていたが、源家再興のことを 当社に祈願し、後に鎌倉に幕府を開くに及んで、篤 く当社を崇敬し、幕府最高の崇敬社として、関八州 総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外 に、鎌倉、室町期を通して武州、相州、上州、豆州、 駿州、越州に二十三ヵ所の社領を所有していたこと が室町時代の文書「寺領知行地注文」に記され、そ の所領範囲の広大であったことが当社の最隆昌期に おける状況を示しております。
鎌倉、室町の時代を経て徳川家康は江戸に幕府を開 くに先立ち二百石を寄進し、次いで慶長になって百 石と、併せて三百石の朱印料を寄進して崇敬の誠を 示しており、歴代の将軍もこれに習い、当社を崇敬 いたしておりました。
又、天皇家にあっては、第十六代仁徳天皇が勅願所 となされてより、二十二代清寧、三十代敏達、三十 三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天 皇の勅願所となり、殊に、御奈良天皇は御宸筆の般 若心経一巻(国指定重要文化財)を御奉納になられ 国土安穏と万民の和楽を御祈願なされております。
大正三年一月十三日、皇太子であられた 昭和天皇 御参拝の折親しく、若松一株をお手植え賜り、現在 緑の葉も繁く栄えております。また、昭和五十五年 九月十二日には皇太子浩宮徳仁親王以下の御参拝を いただいております。
なお、当社は明治以前においては神仏習合が盛んに 行われた社で、役小角をはじめ 弘法大師、多くの 山岳仏教徒や修験者が入峰して修行を積んだ霊場で 御白河法皇の御撰による梁塵秘抄に「四方の霊験所 は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸隠、 駿河の富士山、伯耆の大山」と著され、東国 東海 における第一の霊場として聞こえていたことがしら れます。
御神徳 火の神、国生みの大親神として、国を護り、生命の 充実・発展、縁結び、家内安全、産業・事業・経営 の護り、火防鎮火、温泉守護の御神徳があります。
宝 物 後奈良天皇御宸筆般若心経一巻・古剣一振・男神立 像(日本最大)以上、国指定重要文化財、外多数の 宝物を所蔵しております。

金槐和歌集 源実朝
ちはやぶる伊豆のお山の玉椿 八百万代も色はかはらし。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ。
伊豆の国や山の南に出づる湯の 速きは神の験なりけり。

−境内案内板より−



伊豆山神社略誌
関八州総鎮護

当社は古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残されておりませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝え、延喜式神名帳に所載の火牟須比命神社は、当社のこととされております。
社伝によると当社は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に御鎮座になりました。十六代仁徳天皇が勅願所となされてより二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられております。大正三年一月十三日、皇太子であられた昭和天皇御参拝の砌り、親しく若松一株御手植えを賜わりました。今、社頭左側に亭々と聳えております。
大正七年に宮内省から基本財産の一部にと、金参万円の御下賜をいただき、又、昭和三年秩父宮家をはじめ、高松、久迩、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の御寄進をいただき、又、昭和五十五年九月十二日に皇太子浩宮徳仁親王殿下の御参拝をいただいております。
平治の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた、源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで、篤く当社を崇敬し、箱根と共に二所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州総鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に、鎌倉、室町期を通じて、
一、武州 吉田三ヶ村 野中村 一、相州 柳下郷 小田原寺家方金目庄 一、上州 渕名庄半分 一、豆州 丹那郷 田代郷 大田家村 春木村 蛭島郷 白浜郷 初島領家職熱海松輪村東湯屋 山木郷 山上地 平井薬師堂 馬宮庄領家職 仁科庄内田畠 松下田畠 一、駿州 富士村寺 聖一色 伊賀留美 一、越州 国分寺 右の如くに社勢頗る盛え、多数の社領を各地に所有していたことが、吉野時代の文書「寺領知行地注文」に記されておりますが、その社領範囲の広大であったことは実に驚くべきもので、当社の最隆昌期における状況を示しております。
かくて北条、足利の時代を経て徳川の治下に及んで、家康江戸開府に先立ち、二百石を寄進し、次で慶長になって百石と、併せて三百石の朱印領を寄進して崇敬の誠を至し、歴代の将軍も又これに傚い、明治維新に際して国に上地いたしました。
昭和三年昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格仰出され、官社として御神威いよいよ高くいましたが、終戦後神社制度も廃されて宗教法人として新たに発足し、今日に至っております。
猶当社は明治以前においては、久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ、弘法大師、多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して、修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰に成る染塵秘抄に「四方の霊験所は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山。」と著され、東国、東海における第一の霊場として聞こえていたことがしられます。
御神徳 一切の生物の親神として、生命の充実、発展の御守護を土台として、国の護り、産業、事業、経営の護り、良縁の護り、殊に禊道、錬成の御導きの御神威は著しく、火防鎮火、温泉守護の御神徳弥高くまします。
社殿 源頼朝の再興以来、将軍又は領主の寄進により、度々改修されておりますが、現在の社殿は昭和六年より同十一年に亘り、内務省の手によって本殿、拝殿、階殿、神饌所、手水舎、雷電社等の修造、並びに整備が行われました。建物は総朱漆塗、一部極彩色で、細部の彫刻等は見事な出来映えです。
境内社 東鑑に光の宮と記されている摂社雷電社、摂社本宮社、末社白山社、同足立社、同結明神社が鎮座。又、飛地境内社として摂社走湯神社があります。
神木梛及び神湯梛の湯 社頭の左右に梛の木があり、この葉を所持すれば願い事必ず叶うといわれ、又、男女の仲を結ぶ外、交通安全、災難除、入学成就の守りとして信仰されております。
梛の湯の源は、社殿横の宝物庫に近く在り、歌人の左左木信綱博士が、神木梛に因んで「梛の湯」と命名されました。御神威によって湧出した神湯で、社務所に引湯し、奉仕者の潔斎に用いております。
宝物 後奈良天皇御宸筆心経一巻(国重文)古剣一口(国重文)八稜鏡各六面(県文)経巻、経塚出土品(県文)神像、古文書等百余点。
付近名勝 般若院、興亜観音、走り湯、岩戸山、日金山、十国峠、伝斉藤別当実盛の墓、伊豆山温泉。
参拝順路 JR熱海駅から伊豆山神社前までバス(伊豆山神社行、又は七尾行)で約七分。駅前バスターミナルから発車、別に伊豆山温泉経由、神社行の循環バスもでています。

−『平成祭データ』−



【 伊豆山神社 】

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