[HOME] > [神社記憶] > [甲信越地方] > |
|
高彦根神社
たかひこねじんじゃ
新潟県長岡市宮内5−6−51
|
||
式内社 越後國古志郡 都野神社 |
宮内駅の北500mほどの道路脇にある。
広場のような印象の境内だが、朝日を浴びた拝殿は美しい。
俗に、「一王神社」といい、
源頼朝から神領三千貫を寄進されたほどの大社であったが、
天正六年(1578)、御館の乱で兵火にかかり焼失。
神領も没収されたらしい。
式内社・都野神社の論社。
明治初年に、現社号・高彦根神社と改称。
明治六年、村社に列した。
昔、社殿の東に沼があり、春秋の祭典に生贄を供していたという。
怖い神社だったようだ。
今は、境内にあまり木々がなく、広場のようになっており、明るい印象。
鳥居 | 拝殿 |
境内 |
社殿 | 本殿 |
拝殿の額 | 稲荷社 |
現社名、高彦根神社と称し、古来式内都野神社
なりと号す。社伝によれば、俗に一王神社といふ。頼朝よ
り神領三千貫文の寄進を得た大社で、別当は真言宗多聞
寺・正行寺・西福寺・長福寺。神官は荒木玄蕃、朝日左近、
永井左京らが祭祀を掌つた。天正年中(一五七三−九二)、
上杉家家督争ひの御館(おたて)の乱に神領地を没収され、社頭も兵
火に焼亡し、別当神官ら四散のやむなきに至つたが、永井
家のみとどまつて命脈を保つた。元和二年(一六一八)、領
主堀直奇より村高の内、七〇石の寄進をうけ、後牧野家に
引継がれて維新に及んだ。神社の近郊に、寺院跡、観音堂、
天神堂、仁王門などの遺跡名をのこしてゐる。社殿の東に
一〇坪程の池があり、これは往古、春秋の祭典に生贄を供
した御加持ヶ池の跡(片目の魚棲息)と伝えるが、今は形跡
をとどめてゐない。
−『式内社調査報告』− |
【 高彦根神社 】