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若一王子神社
にゃくいちおおじじんじゃ
長野県大町市大町2097  Zenrin Data Com Maps display !!


花沢瀉


三つ巴

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旧県社

若一王子神社公式サイトを開く

御祭神
伊弉册尊 仁品王 妹耶姫 若一王子

長野県大町市にある。
大糸線・北大町駅の西500mほどの大町に鎮座。

地図を見ると31号線側(東側)からの参道が表参道のようで
東側に参道入口の鳥居がありそうな雰囲気だが
僕は147号線側(西側)から境内に入ったので東側は未確認。

境内は南向き。朱の両部鳥居の左手に手水舎があり、
鳥居扁額には「若一王子神社」。

鳥居をくぐると、正面に社殿、
境内右手には社務社などが並び、その前に大きな三重塔。
宝永八年(1711)、木食山居上人の勧進によって建立され、 県宝に指定されている。

拝殿の右手には、宝永三年(1706)、建立の観音堂。
仁科三十三番札所巡りの第一番札所になっている。

拝殿後方、垣の中にある本殿は、
戦国末期の弘仁二年(1556)仁科盛康によって造営され、
一間社・隅木入春日造で、国の重要文化財。
正面の破風に、ひょうきんな顔の赤い鬼面が付けられている。

参拝は十月の午後。
天気が良くて日射しの強い日だった。
できれば早朝、日の出前の朝靄立ち込める頃に参拝したかった。

穂高神社仁科神明宮とともに仁科三大社の一つ。

創祀年代は不詳。社伝によると、
垂仁天皇の御代、この地の守りであった仁品王が伊弉册尊を祀ったのが当社の創祀。

後、当地を治めた仁科氏によって、祖神・仁品王と后の妹耶姫が合祀され
嘉祥二年(849)に創建されたという。

さらに、鎌倉時代初期、仁科盛遠宿禰が
熊野権現(熊野那智大社)に詣で、第五殿に祀る「若一王子」を勘請し、
若一王子の宮、若一王子権現と称するようになった。
若一王子とは、天照皇大御神のこと。

天正十年(1582)、仁科氏が滅んだ後は
松本城主の崇敬篤く、江戸初期の承応三年(1654)、
仁科神明宮の宮大工金原周防によって社殿の大改修が行われた。

明治維新に際し、現社号・若一王子神社と改称。
明治五年村社に列し、大正十三年郷社に、昭和六年県社に昇格。

七月に行われる流鏑馬神事は、県の無形民俗文化財。
承久三年(1221)仁科盛遠が後鳥羽上皇の院宣を奉じ
従士を集めるため流鏑馬を神前に奉したのに始まり、
鎌倉の鶴岡八幡宮、京都の賀茂神社と共に、
わが国の三大流鏑馬の一つとして名高いらしい。

流鏑馬神事に続いて舞台行事が行われる。
各町からは舞台が6台出て町内を一巡後、神前に囃子が奉納される。

本殿の屋根に、花沢瀉紋と三つ巴紋が付けられていた。
花沢瀉紋は、松本藩主であった水野家の家紋なので、
当社の神紋というわけではないのかもしれない。

また、拝殿の屋根や、授与所にある御守りなどには
三つ巴紋が付けられており、公式サイトにも三つ巴紋があるが、
本殿の屋根の三つ巴と向きが逆だった。

紋の向きに重要な意味はないのかもしれないが、
このサイトでは、本殿屋根の三つ巴紋の向きで掲載しておく。

境内左手から後方に広がる社叢は県の天然記念物で、
多くの境内社が祀られている。
社名を確認できないものが多いので、
比較的大きな社殿を持つ境内社の写真だけ掲載しておく。

『平成祭データ』には、
大町護国神社、八坂神社の他に、子安神社、鹿島神社など。

また、当社の西に連なる北アルプスの蓮華岳(2799m)の頂上に、
当社の奥宮が祀られている。


社頭

鳥居

拝殿

境内

拝殿

王子観世音

本殿

本殿の神紋

本殿の鬼面

三重塔
大町護国神社

八坂神社

若一王子神社
本神社は垂仁天皇の御代に仁品王が社を建て伊弉冊尊を奉祀し、後にこの地方の人等は此の地の創始の神として、仁品王、妹耶姫の御二柱を崇敬のあまり合祀されました。降って仁科氏安曇郷(安曇野)を領して居住すると、崇敬すること大変深く嘉祥2年(849)に創建がなされたと伝えられております。仁科家が累代社殿の修造を加えて来ましたが、仁科盛遠宿禰が遥々と熊野権現(熊野那智大社)に詣で第五殿に祀る「若一王子」を勘請してより、若一王子の宮と称されました。世々領主の崇敬益々篤くその後屡々造営修理が加えられた安曇野の古社であって、特に松本城主の崇敬篤く現在の本殿は戦国末期の弘治2年(1556)に仁科盛康によって造営され、更に江戸初期の承応3年(1654)社殿の大修造がなされ、その時附された自紋は今尚現存しています。当初若一王子権現と称しましたが、維新の際現社号に改められ、昭和6年に県社に昇格、昭和51年には別表神社(旧官国幣社格)に加列され、名実共に安曇の里の大社にふさわしき御神徳の光被益々にして遠近の崇敬の的となっています。
御本殿の様式は四隅に柱を立てているだけの1間社で隅木入春日造りであります。拳鼻を幾重にも付けていること、各種の組物の形が重厚であること等々、この社殿は比類希にして、荘厳で複雑な架構法が特色で旧条例による国宝(昭和6年3月列格)にされました。昭和30年からは重要文化財の指定を受けております。
現在の拝殿は伊勢神宮第60回式年御遷宮による内宮外玉垣南御門他の神宮社殿の譲与を受け旧拝殿を幣殿となし、その前に新設されたもので、昭和50年の建立にして檜の香も芳しい。
観音堂は拝殿と廊下でつながれている茅葺の建物で宝永3年(1706)に建立され、仁科33番札所巡りの第1番札所になっている。11面観音を本体とし、昔から火不見(ひみず)の観音様といわれ火災除けの霊験あらたかである。現在は祓殿として使用されている。
三重塔は三間三層の柿葺(こけらぶき)宝永8年(1711)に木食故信法阿の観進によって建立されたものであり、江戸時代の建物としてはよく均斉がとれ、蟇股の人身獣面の十二支の彫刻はあまりにも有名にして他に類を見ない。
本神社の例祭神事の流鏑馬は鎌倉の鶴岡八幡宮、京都の賀茂神社と共に、わが国の三大やぶさめの一つとして名高く、仁科氏によって伝承されてきた古い伝統と由緒を誇っている。殊にかわいい子供達が射手となるのが特色で町内を一巡練り歩き、境内神事に至る5時間にも及ぶ優雅な絵巻は全国にも比類なき貴重かつ市民の誇る民族資料である。承久3年(1221)仁科盛遠が後鳥羽上皇の院宣を奉じ従士を集めるため流鏑馬を神前に奉したのにはじまる。現在の射手は各町より10騎出場し、夫々両親が揃い、近親者に不幸のなかった7歳から9歳位の子供が選抜される。射手は、狩衣を着け、手袋、行袴等いわゆる射手装束に身を固め、太刀を佩き扇をさし、重藤の弓をもち、箙には征矢をさし、綾蘭笠を被け騎馬し、昔ながらの服装を着て町内を一巡し、神社の境内に3ヶ所の的に矢を射て豊作を祝う。馬には、口取役、うちわ役、笠役、後衛役、弓持役、介添役等がとり囲み、威勢をつける。
流鏑馬に続いて各町からは舞台が6台出て、それぞれの囃子方が10名位が揃いの衣装で乗り込み町内を一巡後神前に囃子を奉納する。舞台は江戸時代からの文化的価値のあるものであり、中でも大黒町の舞台は県宝の指定を受けている。囃子方は伝統的に代々伝わった各町毎に違った囃子を奏し、神前に奉納する本囃子は森にこだまして各舞台にゆれる提灯と呼応し壮厳を極める。

−『平成祭データ』−



【 若一王子神社 (大町市) 】

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