[HOME]  >  [神社記憶]  >  [中国地方]  >
メニューを消去する。ページを印刷するために。 印刷用ページ


横田神社
よこたじんじゃ
岡山県総社市久代3632  Zenrin Data Com Maps display !!


五七の桐

式内社 備中國下道郡 横田神社
旧村社

御祭神
天穗日命 菅原道眞

岡山県総社市にある。
総社駅から西へ6Kmほどの久代に鎮座。
高梁川にかかる総社大橋を越えて80号線を進み、
4Kmほどで北へ入ると、参道入口に到着する。
石の鳥居をくぐり、100mほど参道を北上すると
突き当りが境内。
境内入口から社殿まで、回廊のような屋根の付いた参道がある。
回廊の途中に、珍しく梵鐘がある。
拝殿の直前で、回廊は右に延びて、突き当りに、
一つの社殿がある。境内社・天神社だろうか。

拝殿の後方に、濃い褐色の大きな本殿。
参拝日は見事な晴天で、清々しさに満ちていた。
参拝した神社の印象は、その日の天候に大きく左右されるのだ。

創祀年代は不詳。

境内に、天保七年(1836)の石碑があり、
天穂日命を祀ると記されているらしいが、
参拝当日には気づかなかった。残念。

『備中誌』には、
「天穂日命を祭るといふも天神宮を合せし故成へし、
此社を土人天神宮と書てテンシン宮といふ」とあるらしい。

『吉備之志多道』によると、
天正十三年に、衰微していた本社を
宍戸安龍元孝が再興し、
当地の一町西の山にあった、すでに破壊されていた天満宮を
当地に遷し、両社を併せ祀ったという。
また、『備中誌』同様、天神宮の「神」を濁らずに
「テンシン」と読むと書かれている。

以上のように、再建後は天神宮と呼ばれていたが、
天保七年の石碑建立以前に、横田神社と改称された様子。

『吉備郡神社誌』によると、
天武天皇が、当地の行宮に居たとき、
天智天皇の皇子・大友皇子が、天武天皇を倒すため
大軍を率いて攻めて来た。
天皇は、自ら斎戒沐浴して、天神地祇を奉幣、
戦勝を祈願して、これを打ち破った。
よって、ここに小祠を建て、崇敬したという。
その小祠が、横田神社であるという。

社殿には、桐の紋を染めた幕が掛けられていた。
ただ、本殿の後方に、昔の社殿の瓦らしきものが置かれ、
その瓦には、梅鉢の紋が刻まれていた。
天神宮とも称され、菅原道真を祭神としていた時代もあったので、
天神の紋・梅の紋も併用されているのかもしれない。

本殿の左右に、小さな境内社が一つずつあり、
廣田神社と龍田神社という社名が記されていた。
本社が横田神社なので、田のスリーカードが完成していて面白い。

ただし、『式内社調査報告』には、
廣田社ではなく廣瀬社と書かれている。
龍田と廣瀬はセットで祭られる事が多いので、
本当は廣瀬なのかもしれないが。


参道入口

境内入口の鳥居

境内入口

回廊

拝殿

境内

拝殿

境内右手の社殿

本殿

本殿左の廣田社

本殿右の龍田社

横田神社の由来
 横田神社は、その創立年代は不詳ですが、平安時代 の九二七年に編纂された「延喜式」に所載された「式内 社」です。当時、この「延喜式」に所載された神社(式内 社)は、毎年の祈年祭にあたり国家的な奉幣を受け、他 の一般の神社とは別の待遇を得ていました。総社市内に は、この横田神社を含めて式内社は七社あります。
 境内にある天保七年(一八三六)に建立された石碑や 社伝によると、横田神社は、嘉承四年(八五一)に正六 位上、貞観元年(八五九)に従五位下の神階を授けら れましたが、中世には衰微し、天正十三年(一五八五) に天神宮として再建されたといわれています。のち、 宝暦七年(一七五七)に社殿が大破しましたが、文政十 年(一八二七)には修理が完了して遷座式が行われています。
 その後、天保七年(一八三六)頃までの間に横田神社 と改称し、さらに整備がなされたといわれています。

  御祭神 − 天穂日命(あめのほひのみこと)
  御祭日 − 十月二十一日・二十二日

−境内案内板−



【 横田神社 (総社市) 】

ボーダー




中国地方
japanmap
全国 北海道・東北地方 関東地方 甲信越地方 北陸地方 東海地方 関西地方 中国地方 四国地方 九州・沖縄地方
鳥取県

島根県
安来市
隠岐郡 隠岐の島町
隠岐郡 海士町
隠岐郡 西ノ島町
隠岐郡 知夫村
雲南市
益田市
江津市
出雲市
松江市
仁多郡 奥出雲町
大田市
浜田市
邑智郡 美郷町
邑智郡 邑南町

岡山県
井原市
岡山市
加賀郡 吉備中央町
笠岡市
玉野市
高梁市
小田郡 矢掛町
真庭市
瀬戸内市
赤磐市
倉敷市
総社市
津山市
備前市
美作市

広島県

山口県