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防府天満宮
ほうふてんまんぐう
山口県防府市松崎町14−1  Zenrin Data Com Maps display !!


梅鉢

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旧県社

御祭神
菅原道眞公
配祀 天穗日命 武夷鳥命 野見宿禰

防府天満宮公式サイトを開く

JR防府駅の北1Km。天神山の麓、松崎町に鎮座。

年末の朝に参拝。
境内では迎春準備が終わっており、
楼門には紅白の幕、拝殿は階段の周囲が大きな賽銭スペースとなっていた。

曇天で、寒い朝だったが、
境内のアチコチをジャージ姿の巫女さん達が掃除中。
キビキビと働く姿が良い感じだ。

創建は延喜4年(904)と伝えられ、日本最初の天満宮。
北野太宰府とともに日本三天神と称されている。

どうして、こんな場所で、日本最初なのか不思議だが、
道真公が大宰府へ西下の途中、
時の周防の国司土師信貞は公と同族であったので、しばらく当地に滞在。
『身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ず此の地に帰り来らん』と誓ったという。

というわけで、延喜3年に没した後、翌年の4年に当社が創建。
ちなみに、太宰府天満宮は延喜5年(905)、北野天満宮は天暦元年(947)の創祀。

道真公以外の祭神は、すべて公の祖神。
天穂日命は、天照大神素盞嗚尊の誓約で生まれた神。
武夷鳥命は、その第1子。
野見宿禰は、天穂日命14世の孫。

野見宿禰は、当麻蹶速と角力を取って勝ったことで有名だが、
当時、殉死の習慣があったが、野見宿禰が埴土で像を造り殉死に代えた。
これにより、土師の姓を賜わった。その孫にあたる土師宿禰古人。
古人の子を清公。清公の第4子を是善。是善の第4子が道真公である。

実際の境内は、もっと華やかな雰囲気なのだが、
曇天の朝のため、写真が暗くて残念。

本殿の後方には末社が並んでいる。
貞宮遥拝所、愛宕社(祭神不詳)、
老松社・若松社(嶋田忠臣、富部左衞門)、須賀社(素盞嗚尊)。
他にも幾つかの石碑があった。ひとつは幸神と書かれていたが、
ひとつは意味ありげな人形(ひとがた)の形。

春風楼は、五重塔建設断念による一層を流用したもの。


鳥居と稱号標

参道鳥居

参道

大専坊

手水鉢

楼門

境内から楼門

境内

迎春準備の拝殿

拝殿

背後から本殿の拝殿

背後の神門

天神山の麓の境内

紫雲石

貞宮

愛宕社

若松社・老松社

須賀社

幸神

人形(ひとがた)の石



観音堂

春風楼

裏参道に防府稲荷社の鳥居

裏参道

防府天満宮略記
御祭神及び由緒
 当社は菅原道真公を始め公の御祖先である天穂日命武夷鳥命野見宿禰の四柱が奉祀してあります。
 道真公は御父は是善公と申され御母は大伴氏で仁明天皇の承和十二年(八四五)乙丑六月二十五日京都の菅原院で御誕生。幼名を「阿呼」または「吉祥丸」と申され、後の人はその徳を敬慕して「菅公」と称え、古くから文教の祖神として広く敬仰されて参りました。菅公は幼少より文学に秀でられ、御年僅か五才の時庭前の梅花を見て「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」と詠まれました。
 また十一才の時最初の詩「月夜見梅花」を作られ、十八才で文章生となり、二十三才で文章得業生に選ばれ、さらに二十六才で対策に及第せられ、三十三才で文章博士等、学識愈愈高まり誠直な政見によって、時の帝の親任篤く次第に高位高官に昇り、遂に五十五才の時右大臣兼右近衛大将に任じられ当代随一の学徳をもって政務を担当されましたが、延喜元年正月二十五日(菅公五十七才の時)藤原氏の讒言により俄かに太宰権帥に左遷せられ九州へ下向されることになり、同年二月紅梅殿の邸を発たれる時、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」と庭前の梅花に別れを告げられたことは余りにも有名であります。
 西下の途中、時の周防の国司土師信貞は公と同族であったので船を当地勝間の浦におつけになり、暫く国司の館に御滞在になりました。公は酒垂山にお登りになり、山秀水麗の勝景を深く愛でられ、『身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ず此の地に帰り来らん』とお誓いになり、家宝の金の鮎を十二尾国司に託して淋しく旅立たれました。
 延喜三年(九〇三)二月二十五日、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲が棚引き人々を驚かせました。国司は公の異変を感じ、直ちに使を九州に遣わして公の安否を伺わしめたところ、丁度その日が公の薨去の日とわかりました。そこで国司は早速館に御霊をお祀りし、翌延喜四年八月今の松崎の地に宝殿を建立して松崎の社と号しました。菅公をお祀りしたお社は日本全国津々浦々に至るまで約一万二千社もありますが、当社の創建をもって日本最古(扶桑菅廟最初)とし、北野天満宮(京都市)太宰府天満宮(太宰府市)と共に日本三天神と称せられております。
社号
 「天満宮」「松崎天満宮」と称していたが、明治六年臣下を祀る神社の宮号禁止によって地名にちなんで松崎神社とした。昭和二十八年全国神社に魁けて宮号を復活することを許され再び防府天満宮と改称した。
社殿
 延喜四年八月周防国司土師信貞が初めて祠を建立し松崎の社と号した。建久六年俊乗坊重源が国司となり東大寺落成の御礼として朱塗の本殿・回廊・楼門を建立し、その後、鎌倉末期の元徳二年火災に罹り、天平十九年大内弘世が再建に着手、翌二十年に本殿、天授元年に拝殿を造営。同四年に大内義弘が楼門・廻廊を建立し、応永八年大内盛見が三重の塔婆及び鼓楼を寄進した。大永六年再度の火災にあったので享禄三年大内義隆が再建した。その後毛利隆元さらに修築を施し、天明九年毛利重就またこれを造替したが、過る昭和二十七年三度目の火災に罹り、そのすべてを失ったが全国の敬神の人士の献資により一億余の巨費を以って造営せられた。
大専坊跡
 天満宮境内には、明治維新まで社坊九坊があり、一山の総号を酒垂山万福寺と称え、大専坊が別当で天満宮創建当時の草創るといわれている。
 この坊は弘治三年毛利元就が大内義長を山口に攻め、これを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となったところ、又尊皇攘夷で激動した幕末にはこの地方を警固する諸士の屯所となった史跡である。昭和六十三年に県の指定史跡となった。
春風楼
 春風楼(通称通夜堂)は往昔防長藩主毛利斎〓公が社頭に五重塔の建立を思い立ち、文政五年六月大専坊に於て地鎮供養の祈祷を修し釿始の儀を行ったが、同年七年二月を期しその資金調達中、天保二年不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った。その後大専坊および氏子世話元締や崇敬者等の発起で塔の設計を変更して、現在の楼閣様式とし明治初年に完工した。この楼の床下の木組は文政年間(約一七〇年前)着工当初の塔の一層棟下に使用すべき組物をそのまま床下に組んだもので、当時の豪壮な面影を偲ぶに充分である。この楼から俯瞰する市の全景や瀬戸の風光は四時洵に絶佳で、春風楼の名のある所以である。
茶室 芳松庵
 御祭神菅原道真公は勅命を受けてお茶に関する故実を調査、研究して正史に著し宮廷貴族を始め庶民社会に喫茶の習慣を広められ、茶聖菅公と称せられるようになった。この菅公とお茶の深い関わりを後世に顕彰するため、御神忌千百年式年の記念事業として平成三年春茶室芳松庵を建立した。庭内の一角には勤皇の志士達が密議を交わした史跡暁天楼も建っている。
境内並びに神苑  境内は勝景の地に在り総面積八万五千八百余坪で、ここより遠く周防灘を隔てて煙霞の間に四国・九州の山々を望み、近く眼下に点在する瀬戸の島々の影見え、西に佐波の清流、右田の奇峰聳え菅公の鐘愛せられた延喜時代の勝景を偲ぶことができる。
附近の名所旧跡
 当地方には数多くの豪族・貴人の古墳が残在しており、往古すでに当地方が絢爛たる文化の華を開いていたことが想像される。大化二年周防の国府が置かれ一国の政治文化の中心となって幾多の史跡名勝を遺し、県下で最も古い文化を持つ史都である。

◎史跡・周防国衙跡(当社より徒歩二十分
◎国分寺(当社より徒歩七分)
◎名勝毛利邸(当社より徒歩十五分)
◎阿弥陀寺(当社より車で十分)
◎月の桂の庭(当社より車で五分)
宝物目録
 紙本著本松崎天神縁起 六巻 応長元年 作者不詳 重要文化財
 金銅宝塔 一基 承安二年 作者不詳 重要文化財
 浅黄糸威褄取鎧兜附立挙臑当・鎧唐櫃 一領一双一合 源平時代 社伝源義経の鎧 重要文化財
 浅黄糸威鎧 一領 源平時代 作者不詳 重要文化財
 紫韋威鎧  一領 源平時代 作者不詳 重要文化財
 大日如来座像 一躯 藤原時代初期 作者不詳 重要文化財
 梵鐘 一口 文応元年 沙弥生蓮作 重要文化財
 松藤蒔絵文台硯箱 一具 室町時代 作者不詳 重要文化財
 獅子頭 二頭 正平十年頃 作者不詳 重要文化財
 鼻高面 一面 正平十年 作者不詳 重要文化財
 紙本松崎天神縁起(写本) 六巻 文亀三年 画土佐光信 書相良遠江守 県指定文化財
 防府天満宮文書 二十六巻 永仁年間以後  県指定文化財
 大小行司職等差定文書 五一四点 元徳二年より明治初年 県指定文化財
 石大鳥居 一基 寛永六年 木賀又兵衛尉 県指定文化財
 天神宮塔勧進帳軸 一本 正元元年 作者不詳 市指定文化財
 紙本墨書源氏物語 五十四帖 元和四年 細川幽斎 市指定文化財
 銅造鉢 一口 文亀元年 大江家延作 市指定文化財
祭事
 釿始式=一月五日
  宮大工が仕事始めの儀を古式に則り行う神事。
 弓始式=一月五日
  貞観十二年(八七〇)春、菅公が師の都良香の邸にて射的を試みられ、すべて命中された故事に囚み、古来よりこの神事が行われている。
 牛替神事=二月節分の日
  御神幸祭に供奉する神牛役をくじ上げする神役定めの神事である。御神鬮には牝・牡生牛及び金・銀・銅製牛置物の他、この神事に協賛して寄せられた数千点の景品が山積され、福運者に授けられる。
 御正祭=三月三十一日
  菅公の薨去の日に当たる御祭日である。公の薨去は延喜三年陰暦二月二十五日でその年の陽暦は三月三十一日である。
 金鮎祭=五月十五日
  菅公筑紫へ下向の途中、当地の勝間の浦へお立寄りの際、菅家の家宝である金の鮎十二尾を、公と同族である周防国司土師信貞に譲られた。その後、国司はこれを社頭に納め、毎年五月十五日、神前に若鮎を供へ、菅公の御遺徳を偲ぶ祭典が行なわれている。
 御田植祭=六月三十日
  境内末社、老松社・若松社の祭りで、御田植をする古来よりの五穀豊穣祈願神事である。名越神事=六月三十日
  夏越祓の神事で、藤蔓の輪をくぐりぬけ除災招福を祈るものである。神事終了と同時に参詣者争うように藤蔓を奪い合うので、俗に輪取りと言われている。
 御誕辰祭(夏祭り)=八月三・四・五日
  菅公の御誕生日に当る御祭日である。公のお誕生日は承和十二年陰暦六月二十五日で、その年の陽暦は八月五日である。
  三日間万燈明や学童の清書奉納・その他種々の神賑行事が催される。
 花神子社参式=十月十日(体育の日)
  その年の御神幸祭に供奉する大・小行司が無事奉仕を祈願する為、一夜醸りの御酒を花神子に奉献せしめる社参式で当日本陣より社殿まで粛々と進む古代行列は優美にして厳かでまさに絢爛そのものである。
 御神幸祭(裸坊祭)旧暦十月十五日に近い土曜日
  一条天皇の寛弘元年(一○○四)十月十五日始めて勅使を御差遺になり、爾来常典となった。
  御神幸式は菅公当地へ御立寄りの際送迎をなしたるに基因し、御旅所はその際の遺跡で当社に特別の由緒ある大・小行司は、菅公当地を御発ちの際御見送りした国庁の庁吏藤井・清水両氏の子孫と言われ、今日も尚その同族以外の者がこの役に奉仕する事はできないことになっている。
  尚、大祭前六日間夜々詣りの神事あり、これは大・小行司隔番にて無事奉仕を祈って参拝する古例の式である。
  また神幸式には数千の哂し姿の信者(俗に裸坊と言う)が供奉し寒月の下、二体の神輿と巨大な網代輿を奉戴した裸坊が「わっしょわっしょ」の掛声も勇ましく長蛇の列をなして進む様は正に勇壮そのものであり、関西屈指の荒祭として称えられている。
祭事暦
一月一日     歳旦祭
一月五日     釿始式・弓始式
一月二十五日   初天神祭
二月節分     節分祭・牛替神事
二月十一日    建国祭
三月二十五日   春祭
三月三十一日   御正祭
五月十五日    金鮎祭
六月三十日    御田植祭・名越神事・大祓式
八月三・四・五日 御誕辰祭
九月二十五日   秋祭
十月十日     花神子社参式
十一月十五日   七五三祭
旧暦十月十五日に近い土曜日 御神幸祭(裸坊祭)
十二月五日    例祭
十二月二十五日  納天神祭
十二月三十一日  大祓式
毎月一日   月次祭
毎月十五日  月次講社祭
毎月二十五日 月次祭

−『平成祭データ』−



【 防府天満宮 】

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