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御所神社
ごしょじんじゃ
徳島県美馬郡つるぎ町貞光字吉良
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徳島県つるぎ町にある。
JR貞光駅から貞光川に沿って6Kmほど南下し、
端山で西へ川を渡り、1・2Kmほど上る。
社前にある吉良のエドヒガン桜が有名らしく、道に案内がある。
山道や林道を想像していたが、綺麗に舗装された道が続き、
エドヒガン桜の前に到着。すぐ前に、境内がある。
参拝した日は、境内の松の木を植えるため、
数人の方が、作業していたので、その脇を通って、境内へ。
正面に拝殿があり、後方に本殿が鎮座しているが、
境内は、清潔に整備され、多くの花が植えられていた。
地元の人に、大事にされているお宮なのだ。
拝殿の前にベンチがすえられ、憩いの場となっている様子。
当社の創建は不詳。
式内・忌部神社の論社として、
山崎の忌部神社と長く論争が続いたが、
明治14年、美馬郡西端山吉良御所平を忌部社地と確定。
これに山崎側が反発し、太政官は、その妥協策として、
徳島市二軒屋町に社地を定める通達を出し、
明治14年、当地(美馬郡西端山)を旧社地として保存。
その後、当社は徳島市の忌部神社の摂社となった。
鳥居の扁額には、「忌部奥社」と書かれている。
神紋は、忌部神社と同じ、梶の紋。
穀(かじ)を植えた神なので、梶紋なのだ。
五月のゴールデンウィークなので、
桜の花は見ることが出来なかった。
桜の季節に参拝すれば、さぞ綺麗なお宮なんだろうなぁ。
樹高20mの吉良のエドヒガン桜 |
境内 | 社殿 |
鳥居扁額 | 本殿 | 由緒石碑 |
天日鷲命は、穀、麻を植え、製麻、製織の諸事を創始され、特に天照大御神が天岩戸にお隠れになった時、白和幣( しらにぎて)を作り神々と共に祈られ 天岩戸開きに大きな功績をあげられた。その子孫は忌部氏と称し、中臣氏と 共に国家祭祀の礼典を司さどり、忌部氏は全国各地にあって、社会教化と神道の宣揚、文化の向上、産業の発展に貢 献していったのである。 阿波忌部氏は、古語拾遺によると、神武天皇の代に天富命が、その子孫を率いて、阿波に 下り 穀・麻の種を植え、此の郷土を開拓し 代々大嘗祭(天皇即位の大礼)に穀・麻を織った荒妙御衣(あらたえ みそ)を貢上した。このように、天日鷲命を奉祭する忌部族即ち徳島県民の祖神を祭り、古来阿波の国の総鎮守の神 社として、朝野の尊崇篤く、平安時代の延喜式内社には 官幣大社に列せられ、名神祭の班幣に預る名神大社となり 、西国随一の格式の大社として四国一ノ宮と称せられた。 また、忌部神社の法楽として、法福寺が建立され、大社 の東西にも東福寺、西福寺が建てられた。そして、安和二(九六九)年には、摂社末社に十八坊を定め、後、寺の一 字に福をつけて忌部別当一八坊とした。円福寺、浄福寺、悠福寺、金福寺、惣福寺、神福寺、冥福寺、地福寺、善福 寺、安福寺、万福寺、福王寺、長福寺、福田寺、福満寺に法福寺、東福寺、西福寺である。当神社は、中世以降の 兵火、あるいは弾圧による社領の没収、御供料の廃絶により神社の呼称の改名することとなり、久しく社地の所在が 不明となったため、社地の論争の原因となった。明治政府が発足し、祭政一致の制を復し神社を国家の宗祀としたた め、明治四(一八七一)年、忌部神社は国幣中社に列せられた。各地から社地の名のり出があり、明治七年十二月、 麻植郡山崎村が社地とされたが、明治十四年一月には当美馬郡西端山村吉良の御所平が忌部神社の所在地と定められ 、祭典が行われた。しかし、論争が続くなか、明治十八年十一月名東郡富田浦町(現徳島市二軒屋町)に社地が変更 され、吉良の旧跡は摂社として、そのまま保持すべしとされた。 今度、徳島市へ遷宮百年を迎え、旧跡より東に、 二〇〇メートルの現地に遷宮して、幣殿、拝殿を新築したものである。 −境内石碑− |
【 御所神社 (つるぎ町) 】