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多伎神社
たきじんじゃ
愛媛県今治市古谷乙47

名にしおはゝ日方の田面のうるふまて 水せきくたせ瀧のみやしろ
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愛媛県今治市(旧朝倉村)にある。
伊予桜井駅の西、4〜5Kmの場所・古谷の奥に鎮座。
通常の道路から、林道らしき舗装路が山へ向っており、
赤い大鳥居が遠目にも確認できる。
大鳥居から少し登ると、道路脇に、ちょっと古い石の鳥居。
さらに、川に沿って道路を登ると、石橋があり、橋を渡ると境内。
到着したころは、あいにくの雨で、暗い境内。
傘をさしながらの撮影は、非常に煩わしいのだ。
境内に入って正面に社殿。
右手に幾つかの境内社が並んでいる。
清水神社・一宮神社・越智神社・天満神社など。
当社の特徴は、社殿後方から境内右手に広がる古墳群。
一見、普通の林のようだが、そこかしこに石組みの墳墓入口が見え、
その数、30数基。
雨が降って暗い境内の林の奥に連なる墳墓は、
一人で歩くには、少し怖いのだが。
入口があれば、覗かずには居られない。
ほとんどが盗掘されており、まともな発掘が行われていないらしい。
そんな情報も、不安感を増幅させる。
奥へ奥へと歩き、雰囲気にも慣れた頃、
いつしか雨も上がり、境内社殿にも陽が射し始めていた。
創祀年月は不詳。
元亀二年には伊予国分寺の神名帳には「多伎不断大願大菩薩」と記され、
江戸時代には、多伎宮、瀧宮、瀧宮牛頭天王などとも呼ばれた神社。
社伝によれば、奥の院の磐座信仰を起源とする神社。
残念ながら、奥の院の位置は確認していないが、
現在、境外末社・磐座神社が鎮座している。
その後、現在地に遷座し、貞観年中に神階を授けられている。
近世に入り、今治藩の雨乞祈願所となり、
大規模な雨乞祈願が、江戸末期まで行われたという。
往古は朝倉郷と高市郷の両郷の氏神であったが、
ある時、一方の氏神にしようということになり、
奥の院の石の向きで決することとした。
翌朝、人々が行ってみると、高市郷の方を向いていたので、
以後、高市郷の氏神となったという。
祭神の多伎都比賣命と多伎都比古命について。
一対の夫婦神のような名前だが、
多伎都比賣命は、宗像三女神の一柱。
多伎都比古命は、『出雲国風土記』記載の阿遅須枳高日子根の御子で、
祖母が、宗像三女神の多紀理毘売命。
ともに宗像系の神とも考えられるが世代が少し違う気がする。
単純に、瀧を神格化して男女神に置き替えたもの、
あるいは、多伎都比賣命の夫を想定して多伎都比古命の名を用いたものか。
石鳥居の近くに、杯状穴と書かれた石。
境内には松茸石。時代は違うようだが、陰陽石らしい。
牛頭天王とも呼ばれていたからか、神紋は、
八坂・祇園と同じ木瓜紋。
境内には幾つかの境内社。
拝殿の右手にある大きめの境内社は天満神社。
他にも一宮神社、清水神社、越智神社を確認したが、
一つ名前のわからない境内社があった。
『愛媛県神社誌』には、上記の他に荒神社、鷹取神社、大仲神社とある。
順番的には荒神社だと思うが、未確認。
参道の大鳥居 ![]() | 鳥居 ![]() | 社前の八雲橋 ![]() |
境内 |
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社殿 ![]() | 社殿右の天満神社 ![]() |
本殿 ![]() | 境内の松茸石 ![]() | 陽の射し始めた本殿 ![]() |
一宮神社 ![]() | 清水神社 ![]() |
わからなかった境内社 ![]() | 越智神社 ![]() |
清和天皇の貞観二年(西歴八六〇年)神階を賜わり、 大三島さん、伊曽乃さんと相並んで数度に渉り 昇格し貞観十二年正四位上に昇りました。(三代実録) 醍醐天皇の延喜年間(九〇五年)式内大社(伊予国に七社)に 列格の光栄に預り、皇室より久しく特別の待遇 に浴し国司、主護職、領主をはじめ庶民の信仰 を集めました。 江戸時代今治藩の祈願所として、雨乞祈願の たびごとに藩主の参拝あり、七日間の祈願は中日 迄を本殿で、後半を奥の院の磐座にて一社伝来 のしきたりによって執り行われ、必ず霊験を いただいたのであります。 広大な境内地の愛媛県指定史蹟三十数基の 群集古墳からは古い歴史と由緒が伺われ、多伎川の 清流と照葉樹を中心とした自然林は全国でも有数、 まさに神様のお座します所であります。 −参道案内より− 松茸石
多伎神社の陰陽石の一つである。今治藩主の命により、江戸藩邸に運んだが 藩主夫人が発病したので夢占いによると、も との多伎宮へ帰りたいという石の願いがあっ たので、また江戸からここへ帰すと、夫人の病 はすぐ直ったという伝説がある。 −境内案内より− |
多伎の宮古墳群 |
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こんなのが幾つもある。一人だとちょっと怖い。 | |
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古墳 | |
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県指定 多伎の宮古墳群
当所は昭和三十四年十二月二十五日
県指定を受けた古墳群である。社殿の裏及び境内一帯に三〇数基の 古墳群がある。約一三〇〇年前(西紀六〜 七世紀頃)作られたものである。 外形 円墳にて内部玄室と、これに通ずる索道 を備えた完全な横穴式石室をもった ものが多い。特に社殿の真裏の比較的 小石を積上げて作った大きいものは高麗 式墳と言われている。大方は盗掘されて いるが昔の姿をとどめている。開扉された 結果、不正確ではあるが、この地方を支 配していた有力者の一族の墓であろう と推定される。 −参道案内より− |
参道鳥居側の杯状穴。ツチノコみたいだった。 |
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杯状穴(性穴)遺構
杯状穴遺構は、古くは弥生時代から
近現代まで続けられている文化遺産と
言われています。一説によると、遺構
の目的は、戦場や各地におもむいた男
性の帰宅を求めた精神的な祈願行為で
生じた”たたき穴”で、前者の祈願穴
に結び祈願を続けたと言われています。−参道案内より− |
