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大水上神社
おおみなかみじんじゃ
香川県三豊市高瀬町羽方2677−2
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香川県三豊市(旧高瀬町)にある。
高瀬駅から南東に5・6Kmの羽方に鎮座。
道路脇に鳥居があり、傍らに「二ノ宮の瓦窯跡」の案内がある。
鳥居をくぐり、脇道を進むと注連柱。
さらに参道を進むと随神門がある。
境内中央、社殿の前には、南北朝時代の「時雨燈籠」。
境内は大水上渓流谷に沿っており、周囲は遊歩道。
巨石や淵が散在する、まさしく神域。
年末の澄んだ空気に、木漏れ日が交差して、
水面を照らしている。そんな感じ。
本殿の横には、「うなぎ淵」(あるいは竜王淵)と呼ばれる淵があり、
旱魃時の雨乞神事が行われたところ。
黒白のうなぎが住んでおり、黒うなぎが姿を見せると雨、
白うなぎが姿を見せると日照り、蟹が出ると大風になるという。
創祀年代は不詳。
通称、二ノ宮。地元では讃岐国一ノ宮である田村神社に次ぐ神社だという。
社名の「大水上」は、水源を祀るという意味。
境内を流れる宮川が、祭祀の起源と考えられている。
主祭神である大水上大明神は、現在、大山積命とされているが、
他説には、高皇産霊尊、罔象女命、国常立尊、三嶋龍王などあるが、
とにかく、水神であり、産物の根元に関わる神であるはず。
当国の初代国造である、日本武尊の第五子である武殻王の崇敬が篤く、
空海入唐のおり、当社に詣でたという。
境内の右手には、平安後期の窯跡がある。
千五百皇子社は背後の巨石に押し潰されそうに鎮座。
本殿後方、宮川の側には、大きな夫婦岩。
境内左手には、四社宮。
元暦元年、平家奉願にも関わらず、滅亡し、
その後、当社に災いが続いたので、平家の祟りを鎮めるために祀られた。
その脇の小道を登ると、タバコの神を祀る豊葉神社と、
左右に荒魂神社・牛神神社が鎮座している。
道路脇の鳥居 |
参道 | 参道 | 祓殿 |
随神門 | 参道 |
時雨燈籠と社殿 |
社殿 | 社殿 |
時雨燈籠 | 本殿 | 拝殿 |
豊葉神社 荒魂神社・牛神神社 | 四社宮 |
うなぎ淵 | 岩の上に千五百皇子社 |
本殿後方の巨大な夫婦岩 | 国指定史跡・二ノ宮の瓦窯跡 |
大水上神社由緒略記
香川県三豊郡高瀬町大字羽方御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神 延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。 三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。 皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。 明治五年郷社に、昭和八年県社に昇格す。而して室町時代の作と伝えられる随神像、建久九年の社領目録、建長年中源平両氏の願文、応永三十四年・永享年間の御造営記、天正二年神事次第、宝永六年二宮旧記目録等を残す。昭和七年史蹟指定の二宮窯跡、康永四年県指定文化財石燈篭がある。 −『平成祭データ』− |
【 大水上神社 (高瀬町) 】