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佐々久神社
ささくじんじゃ
愛媛県西条市安用512
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式内社 伊豫國桑村郡 佐々久神社 |
愛媛県西条市(旧東予市)にある。
壬生川駅から西へ直線で3Kmほどの佐々久山に鎮座。
場所は、かなり分かりにくい。
東予丹原I.Cから北上する道路を1.5Km北上すると大影集会所がある。
そこから狭い路地を西へ入り、集落を抜けると、
田畑の広がる場所の北側に、低い丘陵がみえる。
丘陵の麓にある寺(名前は忘れた)へ向かうと、
寺の東側から後方へ登る狭い道があり、
その道を100mほど登ると、当社境内に到着する。
最初、その道が当社へ通じていると分からず、
丘陵の南麓から登り口を探したが、道らしい道が見当たらず、
通れそうな竹薮の中を、とにかく頂上目指して進み、境内横から「侵入」。
参拝後に、鳥居から続く道を下ると、先ほどの道に出たのだ。
創祀年月は不詳。
祭神は、大鷦鷯命(仁徳天皇)だが、これは、
佐々久の社名と、「おおささぎ」の神名の類似による説。
他に、伊予国造であった雀部臣の祖・神八井耳命とする説や、
佐々久から、「裂く」として、磐裂神・根裂神とする説も。
当初、佐々久山の南麓に鎮座していたが、天授5年、
細川頼之の伊予侵攻で焼失。享保12年、現在地に復興した。
『社記舊説』に、佐々久山を「如龍蛇蟠中野首南尾北」と記され、
南を頭、北を尾とする龍のわだかまった形とみている。
また、当社では、江戸時代、藩命により祈雨祭がおこなわれ、
霊験があったといわれている。
佐々久(ササク)の山名は、ササラや鉄をイメージさせ、
当社の近くには、式内・布都神社が鎮座し、龍神との関連など、
記紀以前の祭祀を思い巡らせるには十分な素材だ。
佐々久山には弥生時代の墳墓遺跡が散在している。
実は、当社への参拝に手間取った理由がもう一つ。
安用の集落を抜け、丘陵(佐々久山)を目指している時、
50mほど先に、野犬の群れがいた。
どうやら家族のようで、一頭の雄犬(だと思う)が、
仁王立ちし、こちらを牽制し、吠えまくる。
丘陵へ向う道は、その道しかないので、
参拝するには、その道を進むしかない状態。
しばらく、睨み合いを続け、少し進んで様子を見ると、
雌犬(多分)が子犬達を連れて、田畑の中へ。
その間も雄犬は、子犬達の様子を窺いながら、猛烈に吠えまくる。
いつでも逃げる覚悟ととも、ジワジワと前進しながら、
群れが遠ざかるのを待つ。
麓の寺。手前の道を登る。 |
境内 |
拝殿 | 社殿から鳥居 |
本殿 | 本殿 | 本殿 |
佐々久神社 所在 大字安用五十二番地 社名 佐々久神社(鎮座年月不詳) 祭神 大鷦鷯尊(おおささぎのみこと) (仁徳天皇)外一神 当社は延喜式に載する社で布都神社、周敷神社になら ぶ古社である。仁徳天皇(大鷦鷯尊)崩御のとき、万民 はその徳をしたいて神社を建てこれを祭る。「おおささぎ のみこと」の音韻に合せ佐々久の地名を社名が生じたと云 われる。元は山の南端に有ったが、天授五年賛岐の将細 川頼之が侵攻、河野道尭と佐々久原で合戦した。細川方 は社殿等すべてに放火焼失した。後、旧地に小社を再建 したが、享保十二年五月十五日に現在地に移し今に至 る。元禄十四年六月十三日より十七日間藩命により祈雨 祭をおこない瑞雨を得て穀物豊作となる。後、各地より 祈雨祈晴五穀成就の祈願依頼あり尊崇甚だ厚かったと伝 わる。 −境内案内より− 佐々久山遺跡群 佐々久山は南北約八〇〇米の和泉砂岩からなる丘陵 である。丘陵には南端から北端まで弥生時代から古墳 時代の遺跡が多数遺存し道前平野最大の遺跡群である。 南端には土壙墓群、中央部には土壙墓や、箱型石棺が 有り、神社前の最高部には、弥生中期の甕棺墓群があ る。ここからはすでに子供用合せ甕棺が出土した。 これに続く北部にも甕棺墓や、北端には横穴式石室 の古墳が存在したがすでに破壊されて存在しない。この古 墳からの出土物には須恵器、鉄器、玉類等である。 又丘の北端部には伊予の中世に君臨した河野道尭の 墓があり、又河野氏と共に戦った宇和の豪族、西園 寺公俊の墓が中央部東の山すそにある。この墓石は緑 泥片岩の板状のもので、石棺の蓋石を利用したものと 云われる。 −境内案内より− |