[HOME] > [神社記憶] > [九州地方] > |
|
火男火賣神社
ほのおほのめじんじゃ
大分県別府市鶴見9488
|
|||
式内社 豊後國速見郡 火男火賣神社二座 |
別府、鉄輪温泉にある。「地獄巡り」の向い、中学校の裏。
別府に「火の神」がふさわしい。
参拝が登校時間にぶつかり、しばらく境内で休憩。
朝早かったので、御朱印は遠慮した。
境内には幾つかの末社もあり、拝殿も立派な構え。
参道も新しく、綺麗に整備されている。
通称、「鶴見権現」。
鶴見岳中腹(東山)に中宮、山頂に奥宮がある。
社伝によると、宝亀二年(771)の創祀。
一説に、宝亀三年(772)二月、大隈国霧島山神が降臨。
国司紀朝臣鯖麻呂が、その霊兆をきき、祠を建てたのが起源とも。
『続日本後紀』には、嘉祥二年(849)六月
豊後国火男火咩神の二神にそれぞれ従五位下を授け
後に、火男神を従五位上としたとある古社。
境内にあった案内の文面では、祭神は男女神とあるが、
明らかに火之迦具土命、火燒速女命だろうと思う。
拝殿の幕に紋が2つ、「折敷に三文字」と「対い鶴」が染められていたが、
本殿には「折敷に三文字」のみ。
「折敷に三文字」は大山祇神に由来するのかもしれない。
また「対い鶴」は、鶴見権現社に由来するのかも。
鳥居 | 参道 |
境内と神門(割拝殿かも) |
本殿 | 拝殿 |
社殿左前の境内社 | 拝殿 | 社殿右前の境内社 |
神木相生松 | 金刀比羅社 |
天神宮 | 秋葉社 |
火男火売神社由緒 當火男火売神社は一名鶴見権現とも 敬称し今から壱千四十年余醍醐天皇の 御代延喜年間に朝廷の神名帳に登載 され(これを延喜式内と云う)降って 江戸時代は玖珠藩主、久留島家代々の 尊崇を受け明治十二年七月六日大分 県下屈指の県社に列せらる。 今を去る壱千百二十三年前の嘉祥二 年に時の朝廷より従五位下の階位を 壱千百五年前の貞観九年一月二十火うし ろに聳ゆる鶴見山(海抜一、三七五米)が大爆発 を起こした際これを鎮められた功績により 従五位上の階位を賜はった神様である (続日本後紀三代実録参照)この 爆発鎮静の際に鶴見山麓一帯に 世界的有名な別府温泉を恵み給った 火の男女の神様である。 文久四年壱千年祭、昭和三十四年壱千百十年祭を 厳かに執行した。 −境内由緒− 延喜式内火男火売神社史略年表 嘉祥二年(西暦八四九年 一一二五年前)六月一日当社の祭神火男・火売二神に対し、朝廷(仁明天皇)から従五位下を授けられた(続日本後紀)。 文徳天皇の御代(八五〇〜八五八)、当地の豪族鶴見為重が勅命によって当社の別当職に兼補せらたという。 なお、同氏の祖秀澄は、天応元年(七八一)に鶴見郷内に居館を構えたという(鶴見氏譜系図)。 貞観九年(八六七=一一〇七年前)一月二十日、鶴見山噴火。鳴動は三日間続き、降灰は数里の間に積った。二月二十六日、この事を太宰府より朝廷(清和天皇)に報告した。四月三日、朝廷は豊後国司に命じて、火男・火売二神の怒りをやわらげるために、神前で大般若経を読ませた。八月十六日、二神に正五位下を授けた(三代実録)。 これによってもわかるように、火男・火売二神は、もともと火の山鶴見の二峯(男嶽・女嶽)を神格化したものである。つまり、山そのものが神と考えられていたのであるから、当社の起源は極めて古いわけである。また、別府温泉は鶴見火山のおかげで湧出しているものであるから、当社の御祭神は別府温泉の守り神ともいうことができよう。 延長五年(九二七=一〇四七年前)、「延喜式」五十巻ができた。その「神名帳」に記載されて、毎年二月の祈年祭に当り、神祇官、もしくは国司から奉幣に預る神社を「延喜式内社」・「式内社」・「官社」などとよんだ。当社も式内社に列した。豊後国では、当社のほか直入郡の建男霜凝日子神社(嫗嶽大明神)、大分郡(大分町東稙田)の西寒多神社、速見郡(大分郡湯布院)の宇奈岐日女神社、海部郡(北海部郡佐賀関町)の早吸日女神社(関の権現さま)など、わずか四社が式内社に列していたにすぎない。これによって当社が「タカガミさま」であったことがわかる。 建治二年(一二七六)、時宗の開祖一遍上人(遊行上人)が九州巡錫の途中当地に立寄り、鶴見権現(火男・火売神)の教えによって鉄輪の石風呂(蒸風呂)を開いたという。また当社境内の楠木に爪ぼりの六字の名号を残したと伝えられる。この時、豊後国守護大友より泰は深く上人に帰依し、一寺をたてて上人に奉った。 上人は、温泉と、その幼名松寿丸にちなんで、この寺を温泉山松寿寺(現在の永福寺)と命名したという(永福寺由緒)。 弘安八年(一二八五=六八九年前)、このころ当社は十五町余の神領を有していた(豊後国図田帳)。今も字名に残る正月田・薬師田・ブグ(仏供)田などは、その名残りであろう。 弘安十年(一二八七)八月、神官加藤氏の祖先加藤兼定が讃岐国から当社宮薗屋敷に来住した(加藤氏系図)。 鶴見氏はこれより先に上方へ移住していたようである。(後藤武夫氏所蔵「鶴見氏譜系図」)。 文明元年(一四六九)十一月三日、府内(大分市)春日神社の湯立神楽の時、当社神官加藤兼盛は、豊後国守護大友政親から頭宮大夫という神官号を授けられた(加藤氏系図)。 天正(一五七三〜一五九一)の頃、大友宗麟のために当社殿は焼かれ、古文書等もすべて焼失したという(太宰管内志)。 文禄二年(一五九三)、大友氏滅亡。 慶長五年(一六〇〇)九月、関ガ原の戦。この時、大友義統(宗麟の子)は大友氏の再興をはかって兵を挙げたが、石垣原で黒田孝高(如水)と戦って大敗した。 慶長六年二月、久留島康親が伊予から玖珠郡森に入城した。当地は久留島領となった。 寛永十四年(一六三七=三三七年前)一月一日、久留島通春公が「九月田」の田三段二十歩を社領として、また宮まわりの森を社殿造営用林として寄進した(加藤芳彦文書)。神官加藤兼義が同公から福大夫の神官名を賜わった。これが福大夫の始めである(加藤氏系図)。 寛文四年(一六六四)三月、領主久留島通清公が当社神殿を新築した(棟札)。 延宝年間(一六七三〜一六八〇)四月、然散禅師が宝泉山実相寺を再興し、安楽茂林和尚を第一祖とした(豊鐘善鳴録)。 元禄三年(一六九〇)四月、松川勘右衛門が石燈篭一基を寄進した(銘)。 宝永三年(一七〇六=二六八年前)三月、字宮司の二ノ鳥居がたてられた(銘)。 享保三年(一七一八)十二月四日、神官加藤金光が、祭事の時に風折烏帽子と紗の狩衣を着用することを、神祇管領卜部家から許可された(神道裁許状)。 享保十八年三月九日、遊行五七世の上人が当社へ参詣して、六字の名号を献納し、銭五〇〇文を寄進した(永福寺文書)。 元文四年(一七三九)九月、原村の久士目佐次衛門が石燈篭を寄進した(銘)。 延享三年(一七四六)九月、原中の板井兵左衛門が石燈篭一対を寄進した(銘)。 寛延元年(一七四八)九月、原の有志八名が石燈篭を寄進した(銘)。 宝暦六年(一七五六)八月二十三日、薩摩の僧諄盈が一遍上人爪ぼりの名号と称せられるものに模して名号をほった。これは今も永福寺に所蔵されているが、その材は、もと当社々前にあった楠であると伝えられている。建治二年、上人はこの楠に爪ぼりの六字の名号をほったが、のちの天正年中、領主大友某がこの楠を伐って船材として用いた。ところがその船は一向に動かず、ついに廃棄してしまった。村民某が船材の一部を以て机を作り、代々秘蔵していたものを諄盈上人がもらい受けて、これに、一遍上人の爪ぼりの名号に模した六字をほりつけたものであるという(銘)。 文化八年(一八一一)、空山玄海和尚が永代常夜燈料として田一段二畝五歩を寄進した。 文政元年(一八一八)四月二十四日、神祇管領占部良長が当社に幣帛を奉った。いま拝殿にかかげられてある額は占部氏の筆と伝えられているが、或いはこの時書いたものであるかもしれない。十月、領主久留島通嘉公が社殿を新築した。造営奉行は北中の庄屋直江雄八郎と原中の庄屋直江武十郎であった(棟札)。 嘉永元年(一八四八)十一月二十四日、馬場の西山一統が天満宮に神田若干を寄進した(寄進札) 嘉永五年、南・北鉄輪村の氏子中より常夜中燈一基を寄進した(銘)。 安政六年(一八五九)十二月、馬場組が天満宮の鳥居を寄進した(銘)。 万延元年(一八六〇)六月、馬場組が三ノ鳥居を寄進した(銘)。 文久四年=元治元年(一八六四=一一〇年前)四月、千年祭をおこなった。千年祭を記念して松川俊策が石燈篭一対、加藤秀朝が石造狛犬一対、小倉組(代表佐藤忠右衛門)が南ノ鳥居を、それぞれ寄進した(銘)。 明治七年十一月八日、神殿以下全社殿が焼失した。その後、応急の社殿・拝殿を建築した。 明治十二年七月六日、県社に列せられた。 明治十四年、神殿を新築、拝殿を改築した。 明治三十一年二月、竹ノ内組(代表加藤永次)が秋葉社の鳥居を寄進した(銘)。 明治三十六年八月四日、宮地上の林地の縁故払下の許可が出た。この払下については当時の朝日村々長加藤累三が明治二十五年より熊本の大林区署に往復すること二十二回、また社掌加藤正男、社総代西山馬作・加藤永次の献身的努力と、武内勢平・同則彦の経済的援助に負う処が大きかった。払下を記念して特に祭典をおこない、且つ氏子中より石燈篭を社前に寄進した(銘)。 大正二年(一九一三)、御即位大典記念として秋葉社を竹ノ内から当社境内に移転し、石祇祠を新造した(銘)。 大正四年十一月、御即位大典記念事業として社務所を新築した。経費の大部分は氏子中の頼母子醵金によった。加藤泰堯が石燈篭一基を寄進した。 大正八年九月、男爵山内万寿治が石燈篭一対を寄進した(銘)。 大正十年四月二十六日、遊行六十四世尊照上人が当宮に参詣し、木札に、「南無阿弥陀仏」の名号と、「わが祖師のねぎごとたりてよろこびし熊野のあさのむかしをぞとおもふ」の和歌をしるして献納した。 大正十二年五月、御越町(亀川)の永田敬蔵が石燈篭一対を寄進した(銘)。 大正十五年十月、西山吉郎・加藤永次が字宮司の一ノ鳥居を寄進した(銘)。 大正年間、加藤累三が石燈篭を寄進した(銘)。 大正十五年〜昭和二年二月、神殿を四間後方(現位置)に移した。 昭和二年十月、神殿と拝殿の間に幣殿(申殿)を新築し、拝殿・亘殿を改築、神楽殿の模様替(茅葺→瓦葺等)をおこなった。この年加藤リュウ・加藤スイが御即位大典を記念して石燈篭各一基を寄進した。 昭和九年、神輿三基を新調した。 昭和十六年二月、お旅所を改築した。 昭和二十七年二月、お旅所が焼失した。同年七月、お旅所を再建した。 昭和三十四年、千百十年祭をおこなった。 −『平成祭データ』− |
【 火男火売神社 (下宮) 】