[HOME] > [神社記憶] > [九州地方] > |
|
深江神社
ふかえじんじゃ
長崎県壱岐市芦辺町深江栄触682
|
||
式内社 壹岐嶋石田郡 與神社 |
壱岐の東側、内海から1Km西へ入った所。
幡鉾川の北にある、道路脇の小さな境内。
あいにく、参拝日には社殿の修築中で、
本殿には覆いがかけられていた。
境内にも、なぜかコンテナが置かれ、
やや、寂しい景観だった。
舊号は「とのみや・姫大明神」。
社地の名も、止乃美夜という。
式内では、「與(ヨノ)神社」と書かれているが、
壱岐に「ヨノ神社」はないため、橘三喜は、
「興」の誤字として、興神社を式内・與神社に査定したが、
「與」は「と」と読み、「との宮」と呼ばれる当社が、
式内・與神社であるとされている。
幡鉾川の南に、彌佐支刀神社が鎮座している。
そちらは「みさき・とのみや」であり、当社は山方の「とのみや」で、
一対と考えられている。
社務所の中に神輿があり、三星の紋がついていたが、
当社の神紋かどうかは不明。
境内 |
鳥居 | 拝殿 |
修築中の本殿 | 神輿 | 修築中の本殿 |
『神社明細帖』に「深江神社、式外、但深江村ノ内元川北村ヲ除クノ外氏子百三十二戸」「勧請年月不
詳。社地一反一畝十八歩半、無税。造営民費、但旧藩主ヨリ白銀五枚寄附」「攝社比売神社。末社稲荷神社、清
水神社」、『壱岐国神社田畑帳』に「深江大明神、宗廟、社領高二石祭米四舛四合定祭九月廿七日御代参あり」と
記されている。 「上棟龔奉再興深江大明神御宝殿一宇」と天正十一年(一五八三)九月の上棟の文にも見えるように、当社は 深江大明神とも言われている。『続風土記』は「当社神祇官の神帳にハ鎮守大明神しるし鳥居の額にハ霊鑑とし るす壱岐神社帳云山方深江大明神本社古来にて勧請年數しれす宝殿拝殿あり」と述べている。松浦鎮信花押の慶 安二年(一六四九)六月、また延宝三年(一六七五)九月の棟札などが伝えられているが、社殿造営ごとに、国主 より白銀五枚を寄進せられ、明治九年(一八七六)十二月には村社となり、更に、大正二年(一九一三)十二月に 神饌幣帛料供進神社に指定された。 延宝の改め以前は式内社であったとされるところから、後藤正足は山方「との宮」姫大明神、式内「との神 社」すなわち與神社をもって、当社の前身と見ている(『壱岐神社誌』)。例祭は十一月十一日である。 −「芦田町史」− |
【 深江神社 】