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鳥海山大物忌神社
ちょうかいざんおおものいみじんじゃ
山形県飽海郡遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡51  Zenrin Data Com Maps display !!


鳥海ふすま

式内社 出羽國飽海郡 大物忌神社 名神大
出羽國一宮
旧國幣中社

御祭神
大物忌神

山形県遊佐町にある。
遊佐駅から直線で南東に3Km、鳥海山の南西麓、
蕨岡に鎮座し、当社は、蕨岡口之宮と称されている。

鳥海山の西麓、吹浦にも、吹浦口之宮が鎮座しており、
本殿は、鳥海山上(2236m)にある。

社伝によると、景行天皇の御代に出現し、
欽明天皇二十五年、鳥海山上に鎮座した。

他説では、欽明天皇七年の鎮座とする。

祭神・大物忌神については、
倉稲魂命豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とする考えがある。

鳥海山は古代日本の北の境界に位置し、
異狄に対して神力を放って国家を守ると考えられており、
更に、穢れを清める神でもあるという。

社殿内正面には「鳥海山大物忌神社」の額が掛かり、
右手には、「鳥海山大権現」の額。
当社は、鳥海修験としての歴史が長く、
往時には三十三坊を有していた。

『和漢三才図会』によると、
鳥海山は慈覚大師が始めて登山したとあり、
麓の社は鳥海弥三郎の霊祠とする。
鳥海弥三郎は、鎌倉権五郎景政と戦い、
右目に矢を受けながら、返しの矢で敵を射殺した。
眼にささった矢を抜き、近くの川で眼を洗ったといい、
そのため、その川の鰍は一眼であるという伝説がある。

いくつかの境内社がある。
赤い鳥居の境内社は、社殿横の案内板には「荘照居成神社」と書かれていたが
扁額には「摂社 風神社 末社 稲荷神社」となっていた。
その境内社の横にも祠が並んでいたが、その中に荘照居成神社があるのだろうか。


境内入口

神門

石塔

舞殿

鳥居

境内

社殿

社殿

稲荷神社・風神社

境内社

境内社

出羽一宮
鳥海山
大物忌神社略誌
祭神大物忌神
 社伝に倉稲魂命とあり伊勢外宮の豊受大神と同神なり
由緒  社伝によれば第十二代景行天皇の御代当国に現はれ、 二十九代欽明天皇の御宇二十五年(約千四百年前)に鳥 海山上に鎮座されたと伝へられて居る。其の後貞観四年 には官社に列し国家の祀典に預り延喜の制には摂社の月 山神社と共に名神大社の待遇を受け諸国に一ノ宮を定め られるに及び出羽一ノ宮として朝野の尊信を享け特に歴 代皇室の御崇敬篤く度々叙位叙勲の御沙汰があり櫻町天 皇の元文元年には正一位に叙せられた。
尚武将の崇敬も篤く前九年・後三年の役には八幡太郎義 家戦勝を祈願し又南朝の忠臣北畠顕信卿が秋田縣由利郡 乙友村を寄進した寄進状や鎌倉幕府が北目地頭に対し、 当神社の修造を督促せしめた下知状国宝として現在神社 に保存されて居る。
中世本地垂迹説の唱導により神佛混沌以来当神社は吹浦 の神宮寺蕨岡の龍頭寺に於て社僧奉仕するところとなっ たが明治三年神佛分離に際し神式を以て奉仕することと なり明治四年吹浦大物忌神社を国幣中社と定められたが 明治十三年に至り鳥海山上を国幣中社大物忌神社の本殿 として蕨岡及吹浦は口ノ宮として定められたが昭和二十 年終戦後は社格が廃止されて現在に至った。
主な祭日(蕨岡口ノ宮)
一月七日   御種蒔神事  四月二十三日  講社大祭
五月三日   例 大 祭  六月二十五日  五穀豊穣祭
十一月十二日 新 嘗 祭

−社頭案内板より−



【 鳥海山大物忌神社 (蕨岡口之宮) 】

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