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住吉神社
すみよしじんじゃ
福島県いわき市小名浜住吉字住吉1
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福島県いわき市にある。
常磐線・泉駅の北東5.5Kmほどの小名浜住吉に鎮座。
泉駅から東へ進み、6号線を北東へ。
6号線の住吉交差点から西へ進むと、参道の石鳥居。
さらに西へ進むと、境内入口に朱の両部鳥居が建っている。
両部鳥居の奥に、小さな石橋があり御神門がある。
御神門の右手に小ぶりの参拝門があり、
参拝門をくぐって境内に入ると、正面に社殿。
拝殿は銅板葺きの入母屋造。
背後の本殿は流造で、福島県の重要文化財に指定されている。
江戸初期の建造で、側面に四天王、背後に中華風の文人や花獣の彫刻。
境内入口から南へ下ると、摂社の八幡神社がある。
ちょうど岩山を挟んで、本社と対峙する位置。
当社本殿は、現在は東向きだが、当初は北向きだったようで、
この岩山を拝するように、当社と摂社・八幡神社が鎮座していることになる。
本殿の背後や、八幡神社へ向かう道、八幡神社背後にも
海蝕の跡が残る多くの岩がゴロゴロとしている、そんな神社。
創祀年代は不詳。
社伝によると、景行天皇の御代、
武内宿禰が勅命により東北巡視の際、
当地が陸海の要衝の地であることから
東北鎮護として墨江三前大神を勧請した古社。
式内社・住吉神社に比定される神社で、
延喜式記載の住吉神社全国七社の一社。
(対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥)
一説には、天智天皇の御代、
百済救済のための軍船を石城(磐城)で作った際に
勧請されたという。
『続日本紀』延暦十年(791)の条に、
常陸大掾池原公綱主が、その居住地に因んで
住吉朝臣の氏姓名を賜わったとあり、それ以前から祀られていたようだ。
鎮座地は藤原川と矢田川に挟まれた地にあり、
古代には、このあたり一帯は入江になっていた。
その湾内の岩山を神格化し、麓に社殿を作って祀ったとも伝えられるが
当社と八幡神社に挟まれた岩山のことだろうか。
源頼義、あるいは源義家が社殿を造営し、宝剣を献じたことにより
剱宮大明神とも称されたとも伝えられるが
これは摂社八幡神社のことらしい。
明治四年郷社に列し、昭和三年県社に昇格した。
御神門や賽銭箱、拝殿の幕や提灯、
社殿のアチコチに菊紋が付けられていた。
確認できた境内社は、
諏訪神社(建御名方神)、雷神社(別雷神)、久須志神社(少彦名神)。
摂社八幡神社への参道途中の岩に足尾神社が祀られている。
『平成祭データ』には、久須志神社の代わりに
北野神社(菅原道真)の名が載っており、
社名を確認出来なかった小祠が一つ。
参道石鳥居 | 境内入口鳥居 |
朱の両部鳥居 |
御神門と参拝門 | 御神門から境内 |
境内社殿 |
拝殿 | 本殿 |
本殿左側面 | 本殿右側面 |
本殿背面 |
久須志神社 | 雷神社 |
諏訪神社 | 社名未確認 |
八幡神社への参道脇に磐 |
足尾神社 | 岩と石碑 |
八幡神社 | 八幡神社 |
磯山 |
−境内由緒板−
本殿は三間社(正面四・七メートル、側面三・一メートル) の流れ造りで、棟札によると、寛永十八年(一六四一)に 当時の泉城主の一族内藤氏によって再建され、元来 北向きに建てられていたのを貞享元年(一六八四)に東向き にかえたという。 正面中央一間は板唐戸、円柱の上下・大瓶束・本殿や向拝の 軒組みなどはほぼ禅宗様になっているが、正面両脇の 柱間をはじめ、側壁・三方欄間・脇障子にはめこまれた花獣・ 四天王などの厚肉の彫刻や大瓶束・円柱に付した獅子、 あるいは手挟みなどの彫刻はほとんどが後補のものと みられる。幣殿と拝殿は近年の改築である。 江戸時代初期の本県の神社建築のひとつの様式を知る上で、 貴重な建造物である。 −境内由緒板− 由緒 当社は、延喜式内社として磐城七座の一社であり全国住吉神社七社の一社である。 先史時代湾内にあった小さな岩山が神格化され、その麓に社殿が祀られた。 第12代景行天皇の御代に、時の大臣建内宿禰が勅命を奉じて東北地方を巡視したおり、 この住吉が陸と海との要害の地であり、東北の関門にもあたるので、航海安全と国家鎮護のため東北総鎮守として祀られた。 第70代御冷泉天皇の康平7年(西暦1064年)には、朝廷が勅使をお遣わしになって、東国の賊徒の平定を御祈願になり、 源頼義は宝刀鵜の丸の剣を献じて武運を祈念された。 当社は朝野の崇敬厚く、鎌倉幕府は数千貫の社領を寄進しており、 豊臣秀吉の時代は70石の神領が認められ、徳川時代は20石の朱印地を所有していた。東北総鎮守として北向きに建られた 社殿は貞享元年(1684)平藩の領主であった内藤家においてお家騒動などが続き、その原因が平城を睨んで建つ当社にあると され、社殿の向きが変えられた。その時に内藤家より幅5間長さ200間の参道が寄進され現在も道路として残る参道は馬場 とも呼ばれ、馬の訓練に使用できる真っ直ぐなものである。この道路に沿う町を新町と言い、従来の北側の参道沿いを大町と 言う。本殿は寛永十八年(1642)の建て替えで拝殿は近年時代考証の上安土桃山様式に造り改められているられている。 神事 勅使参向式(例祭に行う) 源頼義が勅命を奉じて祈願したことを模した儀式である 流鏑馬(例祭に行う。同日摂社八幡神社祭礼) 康平年間より伝わる 蝗祈祷祭(旧歴6月13日) 稲の穂につく蝗などの害虫を追い払う祭儀 −『福島県神社名鑑』− |