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志波姫神社
しわひめじんじゃ
宮城県栗原市志波姫八樟新田126  Zenrin Data Com Maps display !!


十六菊


五七の桐

式内社 陸奥國栗原郡 志波姫神社 名神大
旧村社

御祭神
木花開耶姫命
合祀
倉稻魂命 應神天皇 素盞嗚尊 菊理姫命
伊弉册命 大日靈命 軻遇突智命 倭姫命

宮城県栗原市にある。
くりこま高原駅の西2Kmほどの志波姫八樟新田に鎮座。
398号線(登米街道)の南にある森の中。
周囲は田圃。

ちょっと記憶があやふやで、境内入口が
どの方角を向いていたか覚えていないのだが、
社前は広い駐車場のようになっていて、
消防団のポンプ車格納庫がある。

白い鳥居をくぐると、木々の茂った暗い参道。
参道の奥が、明るい境内。
正面に赤い屋根の社殿があり、
左手に神楽殿。

社殿(拝殿)の後方、覆屋の中に
流造の本殿がある。
肉眼ではよく見えるのだが、
覆屋の格子のため、写真撮影がちょっと難しい。

社伝によると、
聖武天皇の御宇の創建。
延暦年間、坂上田村麿が東夷征討のおりに、
武運長久・五穀豊穣を祈願したといわれる古社で、
式内社・志波姫神社の論社の一つ。

もとは、伊豆権現と称し、
築館の玄光(源光)に鎮座していたが、
正保年間に焼失。その後再建されることもなく、
石祠に祀られていたという。

寛永十六年(1639)伊達家臣・古内重廣によって
伊豆権現の鎮座地、伊豆野原が開拓され
伊豆野堰の開削にともない、現社地へ遷座。

『式内社調査報告』によると、
古社地である源光の民家の庭先に、
「伊豆大権現」と刻まれた板碑があるらしい。
源光を地図で確認すると、
「伊豆大権現」という名前が記されているがそこだろうか。
次回、宮城へ行く時に確認してみよう。

明治四十三年、村内の運南神社、駒形根神社、八坂神社、
樟神社、八幡神社、白山神社、熊野神社、五十瀬神社を合祀した。

合祀の神々の中に、東北には珍しい倭姫命がみられるが、
どの社の祭神だったのだろうか。

社殿の屋根に、桐紋と菊紋が付けられていた。
どちらが神紋か、どちらも違うのか確認できなかったので
両方を載せてみた。

境内の右手に、小さな石祠が3つ並んでいる。
「金田明神」と呼ばれる祠だが、
元禄年間に無実の罪で磔になった3人の霊を鎮めるためのもの。
旧社地が整備事業区域になったため、
平成十三年に当社境内に遷されたらしい。


社域の杜

鳥居

鳥居

参道

境内

境内

拝殿

本殿覆屋

本殿

本殿背後の石祠・石碑

境内右の金田明神

志波姫神社
由緒
 志波姫神社は、木花開耶姫命を祀る延喜式神明帳 栗原七座の内の大社にして、人皇第四十五代聖武天皇の神亀 天平年間の創建といわれ、延暦年間(七九六〜八〇一)に坂上田村麻呂 東征の際、武運長久と五穀豊饒を祈願したと伝えられる。 社はもと伊豆野権現社と稱し、築館の町裏玄光に鎮座 されていたが、正保年中に祝融の災に罹り、社殿の すべてが烏有に帰し、其の後再建されることなく 伊豆大権現の石宮を祀るのみであった。
 寛永十六年(一六三九)伊達第二代藩主忠宗公は、家臣 古内主膳重廣に伊豆野原の野谷地を賜り、その開拓を 命ぜられた。伊豆野原を拝領した古内主膳は、伊達藩の土木 技術者であった川村孫兵衛元吉に伊豆野原開拓工事の設計を 依頼、正保元年(一六四四)工事に着手、三年の難工事の末、伊豆野 堰の完成をみた。伊豆野堰開削によって、伊豆野原開拓に 成功した領主古内主膳は、明暦三年(一六五八)に至って社殿を造 営し、水下十五ヶ村の守護神として此の地に遷座した。
 明治二十二年四月、市町村制の施行により、姫郷村、 白幡村、梅崎村の三ヶ村を合併し、この由緒ある社名を 唱えて志波姫村とした。町名ゆかりの神社である。
 平成四年十月二十七日、志波姫神社本殿(素木造・一間社 流れ造り・目板葺)が江戸時代初期の建築様式を伝えるものと して、宮城県指定有形文化財に指定された。

−社前案内板−



志波姫神社
町名ゆかりの神社にして延喜式内社栗原七社の一つと云われ祭神は木花開耶姫命、古くは伊豆権現社と称し築館玄光(現築館源光)に鎮座、伊達家二代忠宗公の代、古内主膳重広が伊豆野堰開削ともに明暦三年(一六五八年)現在地に移し水下十ケ村の鎮守としたと云う。 本殿は慶安三年(一六五〇年)の建築と伝へられ覆堂は昭和三〇年に設けた。

−『平成祭データ』−



金田明神
 この石宮は、元禄十二年九月十八日與兵衛、権内と山伏の室鏡院が無実の罪で 磔の刑に処せられたが、その霊を鎮めるため建立したものである。八樟原にあっ たが、農村活性化住環境整備事業区域となったので平成十三年四月ここに遷座し た。台座に「文政九年丙戌九月十九日、願主、肝入彦十郎、善助」とある。
 「伊達治家記録」によると三人の磔の刑は、元禄十二年閏九月二十九日国元か ら江戸藩邸の四代藩主伊達綱村に伝えられた。「一迫八樟村組頭與兵衛及子権内 於其所磔、右父子村肝煎ヲ蔑ニシ、年貢ノ儀ニ就テ無実ノ出入仕掛、事ヲ巧代官 並大肝煎令ヲ背ク科、同村山伏宝鏡院於其所磔、右與兵衛権内ニ語ラレ、致一味 欲心ヲ以テ謀書、剰父ノ名元ニ謀判シ父ヲ重科ニ沈ムヘキ計ノ罪タリ」と。

−境内案内柱−



【 志波姫神社 (八樟新田) 】

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