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函館八幡宮
はこだてはちまんぐう
北海道函館市谷地頭町2−5  Zenrin Data Com Maps display !!


三巴

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旧國幣中社

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御祭神
應神天皇 住吉大神 金刀比羅大神

北海道函館市にある。
市電・谷地頭線の最終駅谷地頭駅から西へ500m。
函館山の南東麓に鎮座。
谷地頭えきから延びた参道に、大きな鳥居が見えている。

境内は東向き。
参道の階段を登ると正面に美しい社殿。
紅葉の函館山を見上げる位置。

境内左手には境内社の鶴若稲荷社がある。

参拝は十一月の初め。
北海道に到着して、まずここを訪れた。
当社の背後、函館山の麓を、ハイキングのコースが設けられているので、
秋の森林を歩いて散策。

文安2年(1445)、函館が「宇須岸」と呼ばれていた頃、
領主河野加賀守政道が築城し、館の東南の隅に
八幡社を立てたのが当社の創祀。

その後、永正9年(1512)蝦夷の戦で滅亡し、
一族は、赤川村に移動したため、当宮も遷座していたが、
慶安年間に元の地に戻り、文化年間に社殿を造営。
明治になり、北海道開拓使の崇敬社となる。

現社殿は、大正7年に完成したもの。

旧国幣中社。


一之鳥居

境内入口

鳥居

参道の鳥居

参道

拝殿

社殿

鶴若稲荷神社

本殿

大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師
吉田初三郎の
「函館八幡宮」

 文安2年(1445年)河野政通が蝦夷地に渡来し現在の元町公園通りに館を築いたとき、その東南のすみに八幡社を立てたのが始まりといわれ、この八幡社は、一時赤川村(現市内赤川町)に移ったが、慶安年間(1648−1651年)に再びもとの地に移した。
 寛政11年(1799年)幕府の東蝦夷地直轄にあたり、蝦夷奉行(後に箱館奉行と改め、翌年、奉行所庁舎が完成した。)が置かれることとなり、八幡社がある河野館跡地を奉行所用地としたため、文化元年(1804年)会所町(現八幡坂の上)に移された。
 その後、明治11年(1878年)の大火で社殿を焼失し、翌年12年にも仮殿が焼失したため、同13年(1880年)この地に移った。
 大正7年(1918年)に完成した現在の社殿は、鎌倉時代に発達した聖亭造りを加味し、新様式も取り入れた八幡造りであり、優雅で壮麗な建物である。

−『平成祭データ』−

境内の左手の道を南へ300mほど歩くと、
箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎父子など、
旧幕府軍戦死者800人の霊を祀る、「碧血碑」がある。
碧血とは、
「義に殉じて流した武人の血は三年たつと碧色になる」
という中国の古事によるもの。

碧血碑から北へ延びる森林の中の小道を進むと、
函館山東麓のロープウェイ乗り場方面へ出る。
函館八幡宮の神域の背後を通る宮の森の小道で、
1.2Kmの短い距離だが、なかなか気持ちの良い道。

函館は、函館山から函館港へ下りる地形のため、坂の多い街。
幾つかの有名な坂があるが、なかでも有名な八幡坂。
文化元年(1804)に箱館奉行所の拡張工事により、
この坂の上に函館八幡宮が遷座された。
明治11年(1878)の火災で焼失し、
明治13年、現在地に遷座したが、八幡坂の名はそのまま。
観光客がカメラを構えて撮影していたので、僕も撮影。


碧血碑

碧血碑から延びる
宮の森の小道

上から八幡坂
函館港を見下ろす

下から八幡坂
函館山を見上げる


【 函館八幡宮 】

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