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御嶽神社 里社本社
おんたけじんじゃ さとしゃほんしゃ
長野県木曽郡木曽町三岳3793

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長野県の木曽町にある。
中央本線の木曽福島駅から西へ12Kmほどの三岳に鎮座。
木曽福島駅から19号線を南下し、木曽川と王滝川が合流するあたりで西へ。
王滝川に沿って20号線を進むと、木曽町役場の三岳支所があり、
さらに西へ1Kmほど進み、王滝川の支流、西野川を渡ると正面に当社の社域。
道路の北側には「太陽の丘公園」「お祭り広場」などがあり、
入口付近に当社の社務所。広い駐車スペースの奥に木曽御嶽本教総本庁や御祓殿がある。
参拝は十一月二十九日の早朝。車を降りると冷たい空気に身が引き締まる。
境内入口には二基の灯籠が立ち、鳥居の右手に「御嶽神社」と刻まれた社号標。
左手に手水舎があるが、小さな氷柱が出来ていた。
冬には凍ってしまうんだろうな、などと考えながら階段を上ると、社殿のある狭い境内。
拝殿・本殿は神明造。現在の社殿は、明治七年に関東巴講により造営されたもの。
簡素というか、とてもシンプルな境内だった。
当社は御嶽山(3067m)を奉拝する里宮の一つ。
御嶽山への一般的な登山口は、黒沢口と王滝口にあり、
黒沢口側では、御嶽山頂上剣ケ峰の頂上奥社と里社若宮、
そして里社本社である当社の三社を総称して御嶽神社(奥里三社)と呼び、
王滝口側では、王滝口頂上本社と里宮の二社。
だが、他にも別殿や遥拝所など、御嶽山全体に多くの関係社や史跡が点在している。
黒沢口御嶽神社の由緒によると創祀は光仁天皇宝亀五年(774)。
信濃国内に悪疫が流行した際、信濃守石川朝臣望足が御嶽に登山し、
大己貴命、少彦名命の二神を祀り、疫病除祓を祈ったのが起源。
翌年の宝亀六年(775)に黒沢口に当社・里社本社が造営された。
天文二十三年(1554)、木曽義在・義康父子によって再建され、
父子の奉納した棟札や鰐口が現存しているらしい。
古くは諏訪大社の神職が年番で奉仕していたが、
徳治二年(1307)、木曽義信が諏訪大社下社の武居祝の次男、宮内少輔重晴を招き、
以来、その子孫により奉祀されているようだ。
中世以前は修験の道場として栄えたが、その後、修験道と民間信仰が結びつき、
山麓周辺に住む「道者」と称する人々が、百日の厳しい精進潔斎ののち
集団で登拝する風習が行われるようになった。
その後、天明二年(1782)、尾張の行者、覚明により黒沢口が、
寛政四年(1792)、江戸の行者、普寛により王滝口が一般に開放され
軽精進により登拝が可能になったことから、御嶽信仰が全国に広まり、
現在、全国の信者は200万人とも言われている。
社頭 |
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鳥居 ![]() | 境内参道 ![]() |
境内 |
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拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
晩秋の手水鉢 |
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木曽御嶽本教総本庁 ![]() | 社務所 ![]() |
御祓殿? ![]() | 覚明社 ![]() |
御由緒
里社本社(当社)里社若宮(三岳村三津屋)、
及び頂上奥社(御嶽山頂)の三社を以って
御嶽神社と称する。光仁天皇宝亀五年(七七四)、勅命を奉じた 信濃国司石川朝臣望足が、大己貴命、少彦名命の 二神を御嶽山に祀り、疾病除祓を祈願したのが 始まりとされる。 御嶽登拝には、古来より百日精進潔斎という 厳しい規則があったが、天明二年(一七八二)に 尾張の覚明行者が黒沢口登山道を開き、御山を 一般信者に開放したことから、以後全国各地に 御嶽講社の発生をみることとなり、現在に至って いる。 里社本社の現社殿は、明治七年に関東巴講 により造営されたものである。 <主な祭典> 里社例祭 七月十八日・十九日 頂上奥社開山祭 七月十日 頂上奥社閉山祭 九月三日 −境内由緒書− 御嶽神社里宮(本社)
御嶽山頂の御嶽神社奥社に対する里宮
(本社)の創建は宝亀六年社殿を黒
沢村に造営するとある。天文二十三年(一五五四年)木曽義 在、義康によって再興されたもので 父子の奉納した棟札と鰐口が現存し ている。 明治維新までは御嶽山大座生権現と 称していたが維新後御嶽神社と称し 大己貴命を少彦名命を祭神としてい る。現存している社殿は明治七年関東 巴講により造営されたものである。 −境内由緒書− 御嶽神社由緒 光仁天皇宝亀5年(774年)信濃国内に悪疫が流行した際、 信濃守石川朝臣望足が御嶽に登山し、大己貴命 少彦名命、二神を祀り、 疫病除祓を祈ったのが始まりとされる。時に宝亀5年6月13日にして、 以後当社の例祭が6月12、13日(新暦7月18、19日)と定められた。 −『平成祭データ』より− |
