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多岐神社
たきじんじゃ
新潟県柏崎市西山町別山字多岐ノ脇5362

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式内社 越後國三嶋郡 多岐神社 |
石地駅の北東、116号線の東にあり、鳥居が見えるが、
鳥居へ向かう道は、116号線の下のトンネルを通るため、
少し南の交差点で西へ曲がり、迂回して東へ向かう。
文禄年間(1592〜1595)の火災で古記録を焼失し
由緒等は不明。
社伝によると、大国主命八世の孫・稲田多彦命が
当地を開拓し、高靇神を奉斎したという。
一説には延暦十二年(793)の勧請とも。
昔は、高家明神とも一宮とも呼ばれた神社で、
多々神社とも多岐神社とも号し、式内社・多多神社(多岐神社)の論社。
國史体系本には、「多岐神社」に関して、
「多岐、武本・京本・貞本多多に作る。
九条本・蠹蝕見えず、案ずるに和名抄に多岐郷あり、
磐船郡亦多岐神社あり、兵部式多太驛あり、
未だいずれが是なるかを知らず」とある。
写本によって、多岐神社、多多神社などの違いがあるようだ。
現在の主祭神は高靇神だが、
多岐津島姫命、多岐津島比古命、太田命などの異説もある。
参道に境内社の石祠が3つ並んでいる。
各石祠には、御嶽社、武布都社、神明社と刻まれた社号標が立っている。
鳥居 |
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境内社 ![]() | 神楽殿 ![]() |
境内 |
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社殿 ![]() | 拝殿扁額 ![]() |
拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
由緒 往古大国主命八世 の孫稲田多彦命こ の地方開拓に当り 高靇神を奉斎し郷 土興隆を祈りしと 謂う天和三年五月 社領六石三斗五升七合附与延喜式内社なり −参道石碑より− 本社の所在は、往古三島郡多岐郷野崎保田木村 と稱し、刈羽郡に属し、村名を別山村と改めたといふ。別 山の名は、寶暦二年(一七五二)社記に、「當社ハ神明記ニ 三嶋郡多々神社ニテ、古ハ三嶋郡多岐ノ郷ノ親村ト申、今 社地ヲ去ルコト三丁バカリ、南ノ田中ニ神輿御幸ノ山ア リ、往昔明神影向ノ地ナリ、是ヲ別山ト號ス、依之村名ヲ 別山ト申ストカヤ」とあり、また社より寅(東北東)の方に 崗蛟澤(オカバミサワ)という深渓あり、これすなわち明神 の舊跡と傳へ、今、悪田川(別山川)の水源で、瀧川といひ、 「多岐ノ郷」「多岐ノ下」とも稱す、とある。 縁起の初に「一に高家明神」とも稱し、一宮ともよんだ。 (明治十六年明細帳)『北越風土記節解』は、「多々神社、 在二高家郷一神、大國主命八世孫苗、田々比子命、延暦十二 年勧請、高家大明神トモ稱」といふが、『特撰神名牒』は、 これを否定して、「多岐と高家は固より別なれば、高家郷 にあるべき由なし」とする。 −『式内社調査報告』− |
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