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子檀嶺神社
こまみねじんじゃ
長野県上田市武石小沢根字小沢根230
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長野県上田市(旧武石村)にある。
旧武石村役場から南東に1Kmほど。子檀倉嶽の麓にある。
子檀倉嶽山頂に奥宮があり、中宮は駒形神社、
そして里宮が当社ということになる。
奥宮には硯石という奇石があるらしく、
周囲の池は旱魃でも涸れないという。
社伝によると、和銅五年山城國紀伊郡稲荷山町からの勧請らしいが、
伏見稲荷のことだろうか。
式内社・子檀嶺神社の論社で、子檀嶺神社嶽石宮大神と呼ばれていた。
また、古社地は五日町という場所で、五日町明神とも称されていた。
天文四年、依田川の洪水で流出し、地頭大井大和守源信廣によって
子檀倉嶽の麓に遷座されたという。
通称、「木の宮」と呼ばれている。
一説には、祭神を木股神とされているからだろう。
大同元年に諏訪社を合祀しており、
神紋も諏訪梶だった。また、
諏訪大社と同じく七年毎に御柱祭りが開催される。
入口の赤い鳥居から参道が続き、両部鳥居あたりから階段がある。
階段中段に、一本の御柱が立っている。
階段上の境内には、社殿と慶徳殿という建物が
渡り廊下のようなもので連結され向かい合って建っている。
社域 |
鳥居 | 参道 |
参道鳥居 |
参道 | 石碑と石祠 |
慶徳殿 | 社殿 |
慶徳殿 | 社殿 |
当社にも赤松の御柱が一本ある、 |
境内社 | 境内社 |
余里川を遡ると、当社の中宮である駒形神社がある。
境内の左手には、天然記念物の「栃の木」がある。
奥宮は、子檀嶺神社の後方の小山の上だと思うのだが、
里宮である子檀嶺神社と、中宮・駒形神社の位置関係を見ると
浅間岳あたりにあるのかもしれない、とも思えてくる。
しかし、余里で聞いたところ、浅間岳には祠などは無いらしい。
やっぱり、子檀嶺神社の後ろの山だろうか。
今度確認に行ってみよう、と思う。
駒形神社 |
天然記念物の栃の木 | 社殿 |
現在の武石村沖の五日町地籍に和銅五年(七一
二)に創立されたと傅へられ、延喜年間(九○一−二三)に
名神小社に列せられた。かつては近隣の住民より「五日町
明神」と愛稱され、信仰・憩の場であり、生活のよりどこ
ろであつた。境内において五日毎に市が開かれ、かなりの
物資が集散したと傅へられてゐる。 奥宮は本郡第一の峻嶽子檀倉嶽の絶頂近くに鎮座し、和 銅五年山城國紀伊郡稲荷山町より倉稲魂命を奉遷し、中宮 は餘里村諏訪社(現在駒形神社と稱する)。里宮が即ち當社に して子檀倉嶽の麓、字小澤根に鎮座し、武石郷の内字五日 町宇賀魂紳を奉斎し、後大同元年(八○六)営國宗社諏訪本 宮健御名方命・八坂刀賣命を合祀し、往古より三神併せて 子檀嶺神社嶽石宮大神と云ふ。『神名帳考證』に「子檀嶺 神社、弓削部乎、大己貴命神娶二八上姫一、生二木股神一、」『神 社覈録』に「子檀嶺神社、子檀嶺は、古麻由美禰と訓べ し。祭神詳ならず、武石村に在す。」『大日本史神祇志』に 「子檀嶺神社、子檀又作駒弓、今在武石付駒嶺 貞観二年、 叙二從五位下一、延喜制、三座皆列小社」『神社志料』「子檀 嶺叙二從五位下一、延喜制、三座皆列小社」『神紙志料』「子 檀嶺神社、今武石村にあり。駒嶺 又駒形と云う、傅云う、 宇賀魂命、健御名刀美命 前八坂刀賣命を祀る、清和天皇 貞観二年二月丙戊無位駒弓神に從五位下を授く、即是也、 凡其祭三月酋日を用う。七年毎に御柱祭あり云々」《明治神 社誌料中巻》。 −『式内社調査報告』− |
【 子檀嶺神社 (上田市武石) 】