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都久夫須麻神社
つくぶすまじんじゃ
滋賀県長浜市早崎町1665(竹生島)
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式内社 近江國淺井郡 都久夫須麻神社 |
琵琶湖北部に浮かぶ島、周囲2Kmの竹生島にある。
よって、当社は竹生島神社とも呼ばれている。
竹生島へのアクセスは4通り。いずれも船便を利用する。
琵琶湖東岸の、彦根港から35分、長浜港から30分。
琵琶湖北岸の、飯浦港から40分。
そして琵琶湖西岸の、今津港から40分。
今津に宿泊していたので今津港に車を停めて乗船。
当日は天気の良い休日だったが、二日前の大雨の日は欠航になったとか。
穏やかな湖面に浮かぶ竹生島が、しだいに近づいてくる。
当社は、竹生島の東南にあり、港に到着後、料金を払って参拝。
階段の途中に鳥居があり、鳥居から右へ参道を進むと境内。
鳥居を曲がらず、上に登ると西国三十三ケ所三十番札所の宝厳寺があるが、
宝厳寺の観音堂から重要文化財になっている舟廊下を通っても、
当社社殿へ直接行くことができる。
鳥居から続く参道は、この舟廊下の基礎部分の横を通る道だ。
創祀年代は、社伝によると、雄略天皇三年。
浅井姫命を祀る小祠ができたのが始まり。
神亀元年(724)三月十五日、天照大神の神託により、
都の守護神として市杵嶋姫命が祀られ、
天平三年(731)、聖武天皇の参拝があり、神殿を新築し、
社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったという。
平安時代には、弁財天が祀られ、竹生島権現・竹生島弁財天とも称した。
『近江国風土記』によると、
夷服岳の多多美比古命が、姪にあたる浅井岳の浅井姫命と高さを競い、
負けた多多美比古命が、浅井姫命の首を落としたところ、
首が湖に落ちて竹生島ができたという。
一説には、首が沈む時に「都布都布」という音をたてたので、
「都布失島」の名となったといい、
一説には、最初に生えたのが竹だったので「竹生島」と称したという。
竹生島の南東部分に鎮座 |
港から宝厳寺 | 2つの参道 |
宝厳寺観音堂唐門から | 重要文化財の舟廊下を通る参道 |
参道鳥居から右へ | 赤い鳥居をくぐり | 舟廊下の下を通る参道 |
参道を通って境内に入ると、南向きの社殿がある。
国宝に指定されている本殿。
本殿前の階段下には、天忍穂耳命を祀った小祠と、
江島社・厳島社(当社と合せて、日本三弁才天社)が祀られている。
天忍穂耳命 | 社殿 | 江島社・厳島社 |
社殿の向かいに授与所の建物があり、南側に竜神拝所。
琵琶湖方向に目を向けると、竜神を拝する鳥居が立つ。
竜神拝所の左右には、蛇の狛犬(狛蛇?)。
境内の西側には、招福弁財天と白巳大神。
招福弁財天には、「日本五弁天」として、
安芸国 厳島大神、大和国 天川大神、近江国 竹生島大神、
相模国 江島大神、陸前国 黄金山大神
と記されていた。
狛蛇 | 竜神拝所 | 狛蛇 |
竜神拝所 | 竜神拝所脇に藤の花 |
白巳大神 | 招福弁財天 | 参道の黒龍堂 |
授与所を通って、境内東側へ歩くと、
弘法大師が唐から帰国後に当社に参拝し
庵を建てたという場所があり、
さらに進むと、放生会斎庭へ出る。
社殿周囲は、観光客が多いためだろうか、あまり目立たないが、
このあたりの樹上には、「川鵜」が多い。
小さな竹生島には、一万羽の川鵜が棲息しているらしく、
糞害とともに、漁業にも被害が出ているという。
頭上に注意しながら、階段を下り、
琵琶湖の湖面に出るが、頭上が気になり、落ち着けなかった。
弘法大師庵跡を過ぎて 奥へ進む | 放生会斎庭 | 放生会斎庭から湖面 |
ということで、都久夫須麻神社境内の散策は終了。
その後、宝厳寺への参拝を終え、帰りの船を待つ。
今津港へ戻る船の航路は、来た時よりも北を通るようで、
振り返って見た竹生島は、丸い椀を伏せた形だった。
船に乗って竹生島を去る |