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綾戸國中神社
あやとくなかじんじゃ
京都府京都市南区久世上久世町673

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式内社 國中神社 山城國乙訓郡 國中神社 |
京都市南区にある。
桂川の西岸、久世橋の西、新幹線高架直下東側に鎮座している。
境内の南は道路に面しており、西側は新幹線の高架になっている。
境内は広く、拝殿の北に、南向き社殿がある。
高架下だが、広く静かな境内。
八月の炎天下、汗だくになりながら、自転車で此処まで来た。
高架のため日陰になっていて、しばらく、涼む。
創祀年代は不詳。
國中神社と綾戸神社が合体したものだが、
いつ、そうなったのかは不明。
國中神社は、式内社・國中神社に比定されている古社。
もとは、北500mほどの蔵王堂(光福寺)の地にあったという。
綾戸神社は、大井川(桂川)の七瀬の御祓の神として、大井社と称せられていたが
天暦九年(955)、綾戸社へ改称した。
だが、明治まで「大井社」とも呼ばれていたようだ。
綾戸神社を式内社・茨田神社とする説もあるらしい。
神紋は、確定できなかったが、拝殿に並んだ提灯に、
下がり藤、三つ巴と五瓜唐花の紋が付いていた。
三つ巴と五瓜唐花は、八坂神社の神紋だが、
國中神社の祭神が素盞嗚尊なので、これで正しいかもしれない。
鳥居 |
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拝殿 ![]() | 拝殿の額 ![]() |
境内 |
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本殿 ![]() | 本殿 ![]() |
旧西国街道が西行から南転する地点のほぼ西
方に鎮座する。祭神は大綾津姫命・大直日命。 江戸時代まではもっぱら綾戸社の称でよぱれて いたが、近代になって現社名を名乗る。合祀す る国中社の祭神は素盞嗚命。綾戸社は、かつて は大井川(桂川)七瀬の祓神として大井社と称し、 天暦九年(九五五)綾戸社に改称されたと伝える。 詳細は不明だが、明治三年(一八七○)の上久世 村内社寺数取調帳(井上家文書)には「大井社 国 中社」とあり、まだ大井社とよぱれることもあ ったと思われる。ちなみに「延喜式」神名帳の乙 訓郡には「大井神社」がみえるが、綾戸社(大井社) との関係は不詳。同神名帳にみえる同郡「茨田 神社」を綾戸社に比定する説もある。上久世荘 公文沙弥道法が領家東寺に進上した暦応三年 (一三四○)一一月作成の荘絵図(教王護国寺文書) に「綾律(津)大明神」とみえる。また応永一五年(一四 ○八)一二月七日の上久世荘年貢算用状(東寺百合 文書)の除分内訳に「壱斗 綾戸宮御粽」とみえ、 綾戸社が上久世荘の鎮守としての位置を占めて いたことがうかがえる。 当地上久世の産土神で、祇園祭の神幸には上 久世の駒形稚児が参加する。紙垂をつけた木製 の駒頭を胸にした稚児で、綾戸国中神社の神体 に模したといい、八坂神社の南大門を騎乗のま まくぐって境内に入り、拝殿まで進むという破 格の扱いをうけている。「山州名跡志」は「綾戸 社 在二蔵王堂南民村中一社南向所レ祭有二説々一 例祭 九月十九日」とし、駒形稚児について「毎 歳六月祇園会ニ、彼ノ神輿四条ノ旅所ニ遷幸ノ 時、冠装束ノ男子、木作ノ駒頭ヲ首二繋テ、馬 ニ乗リ神輿ノ前ヲ行アリ。是便当所ヨリ勤 ム。其駒ノ頭、此社ノ社司ノ家ニ置也。俗御駒 ト称シテ信敬シ、其家ニ参詣シ、祈願ス、由来 不詳」と記している。また「都名所図会」は綾戸 社について牛頭天王を祀るとし、「例祭は四月 十九日也、六月祇園会祭礼、馬の頭を首にかけ て児の騎馬にて当社より毎歳出るなり」とする。 合祀され ている国中社は「延喜式」神名帳に乙訓郡の一座 として「国中神社」とみえる社に比定され、「山 城志」に「在所未詳」とあるように、近世にはそ の所在は不明になっていたものと思われる。 −『京都・山城 寺院神社大事典』− |
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