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日出神社
ひでじんじゃ
兵庫県豊岡市但東町畑山329
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式内社 但馬國出石郡 日出神社 |
兵庫県豊岡市にある。
但東総合支所の北東4Kmほどの但東町畑山に鎮座。
太田川に沿って、482号線を進み、
赤花川との合流点手前で南へ入った場所。
道路脇に広場のような場所(境内?)があり、
その西側に社殿がある。
境内鳥居は東向き。
参拝は5月の連休。社号に合わせて、日の出の頃に到着。
昇った朝日を正面に受けて、社殿が輝いていた。
社殿といっても、拝殿も覆屋もない本殿のみ。
室町末期の建立で、国の重要文化財に指定されている、三間社流造。
創祀年代は不詳。
式内社・日出神社の論社の一つ。
祭神は、天日槍四世孫・多遅摩比多訶神。
多遅摩比泥とも、多遅摩斐泥とも書かれるらしく、
社号の日出、鎮座地が日殿は、この祭神名から取られたものだろうか。
『兵庫県神社誌』によると、
享保十一年拝殿を建立、宝永元年社殿を修復。
明治三年、社殿を現社地に遷し、
明治六年十月、村社に列せられた。
また、『資母村誌』によると、
明治三年までは石地蔵が御神体だったらしく
それ以前の百年ほど前までは鎧着の神像であったという。
本殿の左手に、朱の境内社(稲荷)が一つある。
境内は、恒良親王旧蹟の地。
後醍醐天皇の討幕失敗により、
第六皇子である恒良親王は但馬へ流され、
守護太田守延に預けられた。
守延は当社境内に黒木の御所を設け幽閉したという。
境内 |
鳥居 | 境内社殿 |
境内社 | 本殿 |
日出神社本殿
文化財の指定本殿は室町時代末期の様式技法をよく伝えているとして、昭和38 年に兵庫県指定文化財となり、昭和45年6月に国指定の重要文化 財となった。国の文化財保護審議会において「日出神社本殿は庇部分 に後世の改造部分が多いが、手挟、蟇股など細部は当初材を残し、兵 庫県における室町時代末期の三間社流造本殿の一例として保存すべ きものと考える」と評価されている。 建造物の概説 本殿の建築は三間社流造という。建物は構造上円柱で囲んだ区画 を身舎といい、その全面を庇という。身舎は内・外陣に区画されてお り、外陣正面開放、内陣正面は幣軸構で板扉を建てている。庇は一面の 浜床で正面の柱間は身舎同様に開放で、建物の両側面および背面は 板壁、正・側面の三方には縁がある。構造からみると浜床が見世棚造 風であり、身舎正面の柱間が開放であることなどは、この建物特有の 形式として稀少価値がある。柱上の組物は身舎が舟肘木で妻組も豕 叉首の簡素なものであり、庇は出三つ斗に手挟を組み、中備には蟇股 を置き、これらの彫刻に室町時代末期の特色を見ることができる。軒 廻りは二軒で本繁垂木、破風板の曲線は桁の辺りで折れたような強 い曲率を描いて形式の古さを表しているが、妻飾りの猪目懸魚は輪郭 に火焔形の尖頭を付けた珍しい意匠である。屋根はこけら葺で箱棟 の鬼板は江戸時代中期の修理の際のものであるが、この鬼板が取り 付けられる以前の本殿屋根は野地の納まりなどから推測して茅葺で あったかも知れない。 沿革 日出神社は但馬神話で出石を中心とする但馬地方を治めた天日 槍の四世「多遅摩比多訶」を祭神とする。神社の創立は明らかでない が、延喜式に但馬国出石郡の小社と記された式内社である。現本殿 の建立は、建築の様式技法から考察して室町時代末期の16世紀初頭 と考えられ、その後、宝永元年(1704)、享保11年(1726)、明 治21年(1888)に修理したことが棟札によって知られる。解体修 理は昭和48年10月に着手し、翌昭和49年11月に工事を完了している。 構造様式は旧規を踏襲し、後世改変された箇所は資料にもとづいて 復旧し、覆屋も撤去して当初の姿に修復された。 −境内案内板− |
【 日出神社 (但東町畑山) 】