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生根神社
いくねじんじゃ
大阪府大阪市住吉区住吉町2−3−15
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創祀年代は不詳。
式内社・生根神社に比定される古社。
祭神・少彦名命は「生根神」と呼ばれることがあるらしい。
活津彦根命は、天照大神と素戔嗚尊が高天原で誓約をした時、
天照大神の左手に掛けられた珠から生まれた神。
五男神の四番目で、長男が天之忍穂耳命にあたる。
天之忍穂耳命の児が、天孫・邇邇芸命で皇祖である。
住吉大社のすぐ北にある。
昔、住吉の摂社だった。その頃は、「奥天神社」と呼ばれていた。
「奥」というのは住吉から見て、大海神社の「奥」にあるため。
「天神」は、文明年間境内に天満宮を祀ったため。
住吉周辺の産土神で、塞神社・龍王社・種貸社など、
近隣の無格社が境内に集められ祀られている。
路地奥にあって、目立たないが、社殿は流造千鳥破風で美しい。
「のどかな休日」といった感じの境内。
拝殿も立派だし、本殿も美しい。
社殿後方に、いくつかの境内社がある。
左後方に、「奥天神」とよばれる元になった、天満宮がある。
境内社殿 |
本殿 | 拝殿 |
本殿 |
天浄大神 | 天満宮 | 龍王社 |
塞神社 | 種貸神社 |
稲荷社 | 本殿後ろから |
創立年代及び縁起については詳かではない。社
伝によると本社は住吉大社鎮座以前の創立と云ふが、『住
吉大社神代記』には「生根神」の名は見えない。延喜の制
では大社に列し月次、新嘗の官幣に預かつてゐることより
見れば、早くから有力な社であつたためであろう。社伝で
は祭神を「少彦名命」と云はれるが、文明十四年(一四八
二)十二月天満宮を社地に祀つてからは専ら「奥の天神」
と稱せられて来た。
−『式内社調査報告』− 御祭神 少彦名命 祭日 十月九日(例大祭) 七月十九日(夏渡御祭) 沿革 当社の御創立は不詳なるも、住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り(日本書紀では一千九百年前)、延喜式の神明帳(約一千三百年前に制定)においても当時の式内官幣大社に列し年四度の官幣に預るとある。古来有名大社であったと文献にも多く残っている。 特に豊臣時代には淀君の崇敬社にて、片桐東市正勝元が奉行して現存の御本殿が寄進されている(現大阪府重要文化財文、文部省重重要文化財申請中)。 徳川時代においても、徳川綱吉将軍が修理を命じ奉幣している。(住吉大社造営記) 古来住吉郷の郷社だったが、徳川時代に神宮寺と倶に住吉大社の管理下に入り、後明治五年、元の如く(住吉郷現住吉区全体)の郷社に戻り、現在においては終戦後社格を廃す(全国神社)こととなったが、昨今の夏祭は盛大であり近郷より十万人近い社参がある。 更らに境内社天満宮は、室町後期の建造と推定され、御祭神菅公の木製御神像は、文明十四年、天台法主融円律師作の在銘の国宝級の御神体を安置している。これらも近く国の指定となるは必至である。 又別名「奥の天神」は、住吉大社の奥の天満宮を称したとも云われ、一節には沖の天津神(少彦名命)から出た名称(筧博士の説)とも云われている。 更らに古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であるため、神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられたとあり、「酒祝(さかほがい)の歌」というのが後世まで残って居て当社では秋の大祭を甘酒祭りと称して郷土の人々が親しんで来ているのもその一つの実証と思考される。もともと薬の祖神である関係上、古来住吉の淡島明神との別名のもとに信仰者多く、現在においても旧暦三月三日に淡島祭を行っている。 建造物 御本殿 大阪府指定 重要文化財。完全なる桃山時代の建築様式を残し、切妻千鳥破風木造檜皮葺極彩色の建造にて、慶長五〜七年頃淀君の指令により建設されたものである。 拝殿 総木曽檜材にて桃山時代の建築様式を取り入れ、工事も二ケ年に亘って行なわれ、其の美術的な真価は後世迄も重要視されて行くものである。 天満宮 (境内社)前述由緒書に明記せる通り室町後期の建築様式である。 紅梅殿 元住吉大社神宮寺の回廊(慶長初年の建造物)の一部を、明治初年当社に移し絵馬所となしたるも、昭和初期に集会所に改造す。 其他境内末社四社、及び氏子参集所、神庫、社務所等は何れも明治以降にて新築又は氏地中より移転したものである。 主なる祭礼 例祭(十月八日・九日)、夏大祭(七月十八日・十九日[渡御式])、新年祭、紀元祭、節分祭、淡島祭(新暦四月三日)、秋思祭(十月二十五日)、月並祭(毎月九日)、七五三祈祷(十一月十三日・十四日・十五日)、除夜祭(十二月三十一日) 氏子区域 住吉小学校下、大領小学校下、東粉浜小学校下、西粉浜小学校下、北粉浜小学校下、加賀屋小学校下、住吉川小学校下、墨江小学校下、以上約二万余戸。 境内旧跡 現拝殿東側にある礎石(二十三箇)は明治初年まで建立されていた、帆柱観音堂の跡であって、この観音堂内の仏像は帆柱観音と称して神功皇后御乗船の帆柱を以つて刻みしものと伝えられている(現在当社に無し)。又紅梅殿西側の石崖は土佐陣屋の石崖の一部を当社に移せしものである。 「神明穴立石」御本殿東側に有り、少彦名命が海外に行かれし時の浜の石をここに運び「何首烏」と刻し(薬草名)霊石とされし時代もあり、一夜のうちに和歌浦より住吉浜に来たりし妙石なりとの伝説も今は古老の人のみが知る仮説である。 尚境内樹木、もち其他五百年以上(大阪市指定)数本あり。 玉出生根神社は明治始年に当社より御分神されたものである。 −『平成祭データ』− |
【 生根神社 (住吉) 】