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加太淡島神社
かだあわしまじんじゃ
和歌山県和歌山市加太116

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式内社 紀伊國名草郡 加太神社 |
南海加太駅から西へ約1Km。加太港にある。
参道には御土産屋が並び、参拝の多さを示している。
参道横のトイレを御土産物屋の方々が掃除していた。
みんなで維持していく風潮を感じた。良い気持ちだ。
拝殿内外には多くの雛人形が奉納されている。
拝殿横の末社には、下着や張形、僊使殿には、蛙の人形、稲荷には狐など、
とにかく、奉納品の数が多く、驚いた。
豊臣家との関係が深かったためだろうか、拝殿には桐紋があった。
加太沖にある友ヶ島は、日本書紀にある「淡島」とする説があり、
その友ヶ島から加太に遷座したということで、加太淡島神社となった。
創祀年代は不詳。
婦人病に御利益のある神社として有名だが、その伝承には幾つかある。
主祭神の少彦名命は、医薬の神であり、その神徳が強調され、
特に婦人病に効果ありとされた伝承。
神功皇后(息長足姫尊)が懐妊の身で、遠征を行った時、
赤白の帯下に悩まされ、薬草を試みたところ、平癒したという伝承。
神功皇后が少彦名命の雛型を奉納したことにより、
お雛様の神とされた。
また、淡島様は、少彦名命ではなく、天照大神の6番目の娘の「婆利塞女」であり、
住吉大神の妻だったが、帯下の痼疾があったため棄て去られ、
ここ加太の地に流れ、祀られたという伝承。
そのため、婦人病やお雛様の神と呼ばれている。
参道を進み、右手に曲がると、朱塗りの拝殿がある。
拝殿には多くのお雛様が奉納されている。
拝殿左手に、幾つかの摂末社があり、それぞれにも奉納品が多い。
境内社には、皇霊神社・大日霊神社・月読神社・恵美須神社・楠神社・
大山咋神社・地護神社・住吉神社・春日神社・大杉御崎神社などがある。
入口の鳥居 ![]() | 参道の鳥居 ![]() |
境内 |
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拝殿 ![]() | 王子造の本殿 ![]() |
拝殿 ![]() | 拝殿 ![]() |
境内社 |
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境内社 ![]() | 内部の像 ![]() | そして陰陽 ![]() |
境内社 ![]() | 稲荷 ![]() | 僊使殿 ![]() |
境内の外から社殿 |
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創祀年代や鎮座の次第などは、明らかではない。
ただ、神社の所蔵資料のなかに、滑石製の祭祀遺物があり、
五〜六世紀頃に友ケ鳥で祭祀が行はれた可能性が高い。
社傅によれば、「神功皇后自親三韓を征し、凱旋ましま
しけるに、(中略)官鷁既に難波に向ふときしも、飛廉頻に
風を起し、陽候數々浪を揚げ、漂蕩して忽海路を失ひ、敢
て進むことを得ざりしかば、皇后親艫に立たせ給ひ、天紳
地紙を仰ぎて、此ふねのたよらん方を導かせ給へやとて、
苫をとつて海中に投じ給ひ、其流れさるまにまに進まし
め給ふに、いとも安々と漕ぎつれて、遂に一つの島を得た
り。其の苫のとどまりし島なるをもて、是を苫が島といふ、しなはち友がしまの神なり。皇后則島に上りて望ま
せ給ふに、一の神祠あり。是必前の危難を免れしめ給ふ御
神ならめとて、是を拜し給ふに、則少彦名命にてぞましま
しける。」(『紀伊國名所圖會』第三巻、所収)とあり、海上安
全の神としての性格を有してゐたことがわかる。加太の地
は、古代の官道であつた南海道が、海上を淡路國へ渡る船
出の地であり、この神は、紀伊國→淡路國間の航路の安全
を祈願する神として成立した可能性が強い。 社傅によれば、 もとは加太の沖に浮ぶ友ケ島の一つ神島に鎮座してゐた が、仁徳天皇五年三月三日に現在の地へ遷座したと傅へる。 鎮座地は、加太灣の南端にそぴえる鉢巻山(一○三・五メー トル)の北西裾に位置する。 延喜式神名帳では、名草郡に坐す神となつてゐるが、紀 伊國海部郡は續日本紀神龜元年(七二四)十月甲午條にみ えることから、當然海部郡にいれるべきものである。これ は、この神名帳の原形となつたものが、神龜元年以前に作 られてをり、延喜式神名帳を作る際に、修正されずに取入 れられたためと考へられてゐる。 −『式内社調査報告』− 粟島大明神(加太淡嶋神社)名草郡蚊田(和歌山市加太)にある〔蚊田を加田とし、あるいは海部郡とするのは誤りである〕。 祭神一座 少彦名命〔高皇産霊尊の子である〕 当社鎮座の年記は詳らかでない。この神と大己貴尊が力を合わせ心を一にして天下を経営し、疾病祓除の神誓があったので、本朝医薬の祖とする〔仏教の薬師如来のようである〕。彦は男子の通称で、天稚彦・吉備武彦らの如きはこれである。俗に女神とする。つまり住吉神の后で帯下の痼疾があったため棄て去られた。それゆえこの神を祈ると腰から下の病気がよく治るという。誤りも甚だしい。どうしてこうなったのであろうか。 −『和漢三才図会』− |
