[HOME] > [神社記憶] > [関西地方] > |
|
宗像神社
むなかたじんじゃ
奈良県桜井市大字外山818
|
|||
奈良県桜井市にある。
桜井から165号線(初瀬街道)を東へ向う。外山のバス停近く。
鳥見山の北麓に鎮座。
境内の裏山が開発のためか削られ、なくなって、寂しい。
創祀年代は不詳。
式内社・宗像神社三座に比定されている古社。
胸肩君一族が筑前宗像から神霊を鳥見山字一本松に勧請し、
その子孫である高階氏が、当社の祭祀を行った。
社伝によると、
南北朝時代、社人高階義岑が弟玉井入道西阿とともに南朝に味方し、
興国二年(1341)七月三日、敵将渡辺源四郎と鵄村にて合戦した際、
鳥見山中腹にあった宗像神社は兵火で焼失。
山麓に小祠を構えてわずかに奉祀するだけとなった。
しかし当地に奈良興福寺が外山荘を経営するに及び、
春日明神と若宮社を勧請して宗像社も春日社と称するようになった。
正平九年(1354)高階忠正が神霊を鳥見山中腹の旧地から自邸に移し、
春日社とは別に祀り、これを中島弁才天と称した。
嘉永七年(1854)当地を訪れた国学者鈴木重胤は、
当地の里長玉井某(高階氏の後裔)の庭園に
中島弁才天が祀られていることを知り、
中島は宗像中津島のなまりであると考え、宗像社再興に尽力。
安政六年(1859)宗像大社より神霊を迎え、
万延元年(1860)社殿が完成。
明治八年(1875)春日神社の社号を廃して宗像神社とした。
祠が3つ並んでいるが、両脇は春日社と若宮社。
春日社とも称したようで藤紋も使用している様子。
『奈良県史』によると境内社は、春日神社、若宮神社の他に、
六社神社、大社神社、琴平神社、宮谷神社、厳島神社とある。
境内の祭祀場? | 拝殿 |
社殿は三棟、 中央が本殿、左が若宮社、右が春日社 |
若宮神社 | 本殿 | 春日神社 |
境内社 | 境内社 |
石 | 境内社 |
鳥見山北麓に鎮座。多紀理毘売命・市寸嶋比売命・田寸津比売命を祀る。旧村社。「大和志」
は「延喜式」神名帳の城上郡「宗像神社」三座並名神大、月次」
に比定し、「今称春日」と記す。
当社は社伝「登美山鎮座宗像神社記」によると
南北朝時代、社人高階義岑が弟玉井入道西阿と
ともに南朝に味方して赤尾城(現桜井氏赤尾か)・
登美城(現外山か)に拠り、興国二年(一三四一)七月
三日敵将渡辺源四郎と鵄村(外山村か)に合戦
した際(玉井氏系譜)、鳥見山中腹にあった宗像神社
は兵火で焼失、山麓に小祠を構えてわずかに
奉祀するだけとなった。しかし当地に奈良興福寺
が外山荘を経営するに及び、春日明神と若宮社を
勧請して宗像社も春日社と称するようになったらしい(大和志)。 正平九年(一三五四)高階忠正は神霊を中腹の旧地から自邸に移し、これを 中島弁才天と称したという。 嘉永七年(一八五四)当地を訪れた国 学者鈴木重胤は、当地の里長玉井某の庭園に中 島弁才天が祀られていることを知り、中島は宗像 中津島のなまりで、弁才は神仏習合による女神 宗像神のことであると考え、宗像社再興に尽力。 安政六年(一八五九)宗像大社より神霊を迎え、 万延元年(一八六〇)社殿が完成した。明治八年 (一八七五)春日神社の社号を廃して宗像神社とした。 −大和・紀伊『寺院神社大事典』− |
【 宗像神社 (登美山) 】