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八坂神社
やさかじんじゃ
京都府京都市東山区祇園町北側625
神の代の 八坂の郷と 今日よりぞ 君が千歳は数は始むる
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旧官幣大社 |
京都河原町四条から東。四条通りの突き当りにある。祇園社。
この日のお御籤は「凶」だった。
明治以前は、「祇園感神院」あるいは「祇園社」と称していたが、
明治の神仏分離により、八坂神社となった。
斉明二年、韓國(からこく)の調進副使用伊利之使主(いりしおみ)が再来したとき、
新羅の牛頭山の素盞嗚尊を祀ったと『八坂郷鎮座大神記』にある。
素盞嗚尊は、牛頭天王と同一視され、
牛頭天王は武塔天神とも称する、厄神である。
平安時代に流行した疫病の退散を祈り行われた、
祇園祭は、今でも京都を代表する有名な祭。
配祀の神々について。
市比売命と佐美良比売命は、櫛稲田姫命同様ともに素盞鳴尊の妻。
佐美良比売命に関して資料には見当たらない神だが、
御子とされる大屋毘古命は、大国主神を木の俣から根の堅州国へ逃がした神。
同じく御子とされる須勢理比売命は、根の堅州国で大国主神と結ばれた神。
ということで、根の堅州国に関連する神なのかもしれない。
大祓詞に、根の国底の国に坐す速佐須良比咩という祓いの神が登場する。
「佐美良比売」と似た名前で、祓いの神と言う点が、
素盞鳴尊の疫神としての性質に会う。ような気がする。
稲田宮主須賀之八耳神は、櫛稲田姫命の母で、
須佐之男之宮の首となった足名椎神の妻。
関西に居た頃は、頻繁に来ていたが、ここを目的に来たことはない。
境内に多くの末社があることを改めて知った。驚いた。
西門 門神が安置されている | 西門 境内から |
本殿 |
拝殿 | 本殿 |
境内から南門 | 南門内にある手水所 |
南門 | 南参道の鳥居 |
八坂神社 旧官幣大社。祭神は素盞嗚命・稲田姫命・八柱御子神を祀る。古くは祇園感神院・祇園天神・祇園社・祇園牛頭天王・祇園大明神、あるいは単に祇園と称した。現在、祭神は素盞嗚命を祀るが、もとは祇園天神・牛頭天王が祀られた。牛頭天王は武搭天神とも称し、『備後国風土記』によれば、速須佐能雄であると記している。(中略)このように、創祀については一定をみないが、いずれにせよ当社が朝野の信仰を篤くし、史上にあらわれてくるのは平安期からである。すなわち、当社は式外社であるが、はやく長徳元年(995)には二十二社にも列した。
−『神社辞典』− 八坂神社由緒略記 創祀 八坂神社は明治元年まで祇園社と称していたので、祇園さんの名で親しまれ信仰されている。社伝によると八坂神社は斉明天皇2年(656)高麗より来朝せる調進副使の伊利之使主(いりしおみ)が新羅国牛頭山(ごずさん)にます素戔嗚尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのに始まる。伊利之来朝の事又素戔嗚尊が御子五十猛神と共に新羅国に降り曽戸茂梨(そしもり)〈楽浪郡牛頭山〉に降られた事は日本書紀に記す所であり、新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとある記録と考え合せて、ほぼ妥当な創祀と見てよい。尚この八坂の地は、華頂山の麓に位置し、牛頭天王示現の地と伝える瓜生石も現存し、又神社の南方に八坂の塔で知られる法観寺もあり、この一帯は今も清水寺、双林、長楽、安養、知恩院あり、当時霊地として信仰の対象であった事を思えば当社創祀は斉明期以前をも想定し得る。 −『平成祭データ』− |
境内の末社を撮影。これが全てかどうかは確認していない。
とりあえず、目に付いたものだけ、掲載した。
公式サイトの境内社一覧を見ると、
下記のほかに摂社・冠者殿社、玉光稲荷社があるらしい。
摂社・疫神社 | 太田社 |
厳島社 | 祖霊社 |
八幡社・竈神社・風神社 天神社・水神社 | 刃物神社 |
日吉社 | 美御前社 |
摂社・悪王子神社 | 大神宮社 |
平忠盛灯篭 | 大國主社 |
大年社 | 北向蛭子社 |
阿蘇社・松尾社・諏訪社・春日社・金峰社・香取社 愛宕社・白山社・熊野社・多賀社 |