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熊野那智大社
くまのなちたいしゃ
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山

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御祭神
神社辞典では以下の祭神。
神道大系では、以下の記述。
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熊野三山の一つ。那智の海岸から山中へ5Kmほど。
一大観光地なので、迷うことは無い。
那智の瀧周辺には有料駐車場が多く、客引きも盛ん。
山上に青岸渡寺と並んで鎮座している。
境内からの眺めは素晴らしい。東方には瀧も見える。
もともと瀧の遥拝所だった、というのも納得。
「熊野神邑」。平安初期まで新宮の速玉大神と那智の結大神は
二社一所に祀られ、神倉山麓を「神邑」と呼ばれた。
それに対し、那智は「仏邑」であった。
式内社でないのは、そのためだろうか。
「紀伊続風土記」に「禰宜神主なく皆社僧なり、
社僧に清僧あり妻帯あり」とあるように修験者が祀る霊場だった。
「南海補陀落の山」である。
本宮大社が「家都御子大神」、速玉大社が「御子速玉大神」を主祭神とするように、
那智大社では、「熊野夫須美大神」を主祭神とする。
が、やはり真の主祭神は、別宮飛瀧神社として祀られている「瀧」だろう。
なお、熊野夫須美大神は熊野久須毘命とする説があるが、
熊野三山では伊弉冉尊とされている。
また、御子速玉大神に関しては、本宮大社では速玉男命とし、
速玉大社では伊弉諾尊としている。
御子という文字から速玉男命が正しいような気もするが、
だったら、共に生まれた事解男命は独立していないという問題が残る気もする。
拝殿の奥に五棟の社殿が並ぶ。
が、社殿は通常の位置では、屋根しか見えない。
社殿は、右から第一殿、第二殿、と並び、第四殿が大きいらしい。
第五殿の左に、小ぶりの第五殿(若宮)があり、
その左に、向きを変えて上下八社殿がある。
荒垣の外には八咫烏(建角身命)を祀る御県彦社がある。
また、門の外、第一殿のさらに右に青岸渡寺本堂が一段低い境内にある。
鳥居と参道 ![]() | 参道上から ![]() | 参道階段 ![]() |
階段上の鳥居 ![]() | 拝殿 ![]() |
青岸渡寺境内から第一殿から第四殿 屋根だけ |
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境内 |
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御県彦社 ![]() | 上下八社殿 ![]() |
若宮 ![]() | 八咫烏 ![]() | 神馬舎 ![]() |
熊野牛王神符 カラス文字で書かれた御神符 熊野三山ではそれぞれカラスの数が違う。那智は七二羽。 |
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御由緒 紀伊半島の東南を古来熊野という。熊野とは奥深い処、隈るとも申しそ こは神秘性のある所、即ち神々の住まえる所であり、あこがれの土地とし て尊んだ処である。往古神武天皇が御東征の折、この地に上陸され、那 智の滝に大己貴神を祀り八咫烏の案内で山々を越えて大和に入られたので あります。 仁徳天皇5年那智の滝より社殿をこの地に移し、夫須美大神を祀られたの が「熊野那智大社」の起こりです。後に仏教、修験道の隆盛と共に熊野権現 として崇められ上皇、女院、武将や庶民の参拝が増し継続して詣でる様 子を「蟻の熊野詣」と称しました。 御社殿は熊野造と申し、現在の建物は豊臣の世に再興し享保、嘉永の大 改修を経て昭和10年の御修復で、平成7年国指定文化財となっています。 社前には後白河上皇御手植と伝える枝垂桜や平重盛の手植と申す大楠、 八咫烏にまつはる烏石等があります。 新宮市の熊野速玉大社・本宮市の熊野本宮大社と共に熊野三山の 一社で、全国約4千社と云われる熊野神社の御本社でもあり、日本第一大 霊験所根本熊野三所権現として崇敬の厚い社であります。 −案内リーフレットより− |
高さ133m、幅13m、滝壷の深さ10m。
「三筋の瀧」とよばれ、写真では良く見えないが三本にわかれている。
一説には奥の院妙法山へ登るための禊を行う場。
ここで禊をするのは、かなりの苦行だ。
飛瀧神社入口 ![]() | 鳥居 ![]() | 参道 ![]() |
那智大滝 別宮飛瀧神社 |
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平重盛手植えの大樟 ![]() | 史跡 鎌倉式石段 ![]() | 児宮 多富気王子神社 ![]() |
青岸渡寺本堂 ![]() | 青岸渡寺本堂扁額 ![]() |
