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伊勢神社
いせじんじゃ
岡山県岡山市北区番町2−11−20
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岡山県岡山市にある。
岡山駅の北東1.5Kmほどの番町に鎮座。
旭川の西岸、53号線から300mほど北へ入った場所に
東向きに境内がある。
鳥居が立ち、神門をくぐれば境内。
正面中央に拝殿があり、その後方
一段高く、本殿がある。
本殿の屋根にある千木は、
左が内宮と同じ内削ぎ、右が外宮と同じ外削ぎとなっている。
参拝は正月二日の早朝。
神門には、「祝初詣」と書かれた幕。
前日の元旦なら参拝客も多かったかもしれないが、
この日は、境内には誰もいなかった。
神門や社殿には、灯りのともった提灯がオレンジ色。
早朝の蒼い境内に、美しかった。
社殿の周囲は駐車場となっており
数台の車が停められていた。
市街地にある神社の宿命か。
通称は、伊勢宮(いせのみや)。
社伝によると、
第十代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命により創建。
天照大神は、崇神天皇六年までは、天皇の大殿に祀られていたが、
その神勢を畏れ、天照大神および草薙剣を
豊鋤入姫命に託して、大和国笠縫の邑に祀った。
その後、丹波国吉佐宮、大和国伊豆加志本宮、
紀伊国奈久佐濱宮を経て、
五十四年、当社(吉備国名方宮)へと遷り、当地に四年鎮座した後、
大和国三輪の御諸の嶺の上の宮へと移された。
また、式内社・伊勢神社の論社でもある古社である。
境内の幟や提灯には花菱の紋が描かれていた。
伊勢神宮と同じ紋だ。
当然といえば当然だな。
境内社として、境内右手に稲荷神社など。
本殿後方に十五末社(御門神・風神・多賀宮・荒神宮・熱田神宮・
春日神社・五元神社・斎宮・興玉神社・鈿女・
伊雑宮・荒神社・戸隠神社・今村神社・會魂神社)と
幸延神社や稲荷神社などがあり、
境内横には、岡山市弘西コミュニティハウスがある。
当社より南へ600m、53号線の南にある
榎本神社は、昔は当社の摂社であったが、
昭和二十一年に独立したらしい。
境内入口 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
本殿屋根左の千木(内削ぎ) | 本殿屋根右の千木(外削ぎ) |
境内社 | 境内社 |
伊勢神社略記
伊勢神社(通称伊勢宮)は、第十代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命の御創建になり、二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。その後、他の神社も御創建され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上ったと思われる。安土桃山時代以後は、宇喜多、池田両藩主の崇敬殊に篤く、池田光政公以後明治維新迄備前藩寺社領としては最高の三百石を賜わり、伊勢宮神官を以って備前国神職総頭の職を拝命され、備前藩又は池田家の祭事いっさいが伊勢宮神官の手によって執り行われ、現在も続いている備前の国で最も由緒のあるお社である。又、伊勢宮には、三百年前から「御神事」という祭事が執り行われている。この御神事は、文禄元年宇喜多秀家が秀吉の命を受け、「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲胄に身を固め、藩主以下総勢行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち、伊勢宮に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀のなかにとり入れて行われたのが起源である。明治初年の頃迄は神馬、弓、槍、具足甲胄を身につけ執り行われていた。伊勢宮の氏子は、武士と町人が半々であったため、御神事は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町(下出石町は現在岡山神社の氏子である)の四町内が順番に奉仕していた。−境内由緒書き− |