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世良八幡神社
せらはちまんじんじゃ
広島県世羅郡世羅町小世良328  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 備後國世羅郡 和理比賣神社 (参考)

御祭神
天照皇大神 誉田別尊 玉依比売命
天児屋根命 世良彦命 市寸島比売命
大山祇命 高靇命 菅原道真命

広島県世羅町にある。
世羅町役場の南東1Kmほどの小世良に鎮座。
184号線の東に、西向きの境内。

鳥居をくぐると、正面に一本の社号標が建っており、
その奥の高い位置に神楽殿がある。
参道は神楽殿の左右に続き、
階段を登ると広い境内。

神楽殿を回り込むように境内に入ると、
さらに石組みの上に社殿が見える。
拝殿の後方には、さらに高い位置に流造の本殿。

つまり、境内全体は、まず鳥居があり、神楽殿があり、
拝殿があり、本殿があるという四層構造になっている感じ。

創祀年代は不詳。

一説によると、上古、
世良比子(世良彦)が世羅郡を開いた時に
天照皇大神天児屋根命玉依比売命を祀ったのが当社の起源。
神社境内の裏山に、
世良彦命のものと伝えられる古墳があるらしい。

貞観元年(859)、豊前国宇佐八幡宮から
山城国男山へ、八幡神を勧請する際、
世良巫某が、豊田郡沼田本郷まで、出迎えたという。
その縁故により、当社へも八幡神を勧請し、
以後、世良巫八幡宮とも称され、
大田庄八箇村(小世良、甲山、西上原、
本郷、井折、寺町、堀越、京丸)の氏神と定められた。

後、寺町へ八幡神を分祀したため、
当社・世良八幡宮を本宮と呼び、寺町八幡宮を別宮と呼ぶ。
その寺町八幡宮が、式内社・和理比賣神社の旧地である。

ところで、当初祀られた玉依比売命とは誰だろうか。
宇佐神宮祭神の比賣大神を玉依比売命と呼ぶ場合があり、
八幡系神社に祀られる玉依比売命は、神功皇后の妹神ともされているが、
八幡勧請以前の、当社の玉依比売命についてはよくわからない。
天児屋根命とともに祀られており、天児屋根命の后神・比売神かもしれない。
あるいは、神に仕える巫女的存在だったのかもしれない。

参拝は冬の休日の朝。
境内裏山の林の中から、朝日が射し込んでくる頃。
境内には雪が残っていたが、
午後になる頃には消えてしまいそうだ。


境内入口

境内

境内

境内

拝殿

本殿

世良八幡神社の由緒
世良八幡神社は貞観二年(約千百三十年前)
世良彦社に八幡大神を併せ祀り世良彦八幡
宮とも唱えている。
世良彦命は、孝靈天皇の皇子五十狭芹彦命
並びに若建彦命が吉備の地を征定し給いし
時、その部下として世良郡の郷土執政役郡
司として地方開拓の任に当り、部落生民の
基礎を開いた一偉人英雄の士であるという、
三代実録(藤原時平勅選)には、世羅郡を
世良郡と記せり、また地方を郡元(こうり
もと)と云い伝いふるも、この地方を世良
彦命が開拓創業せられしことが原因するの
である。
即ち小世良(おせら)御世良の敬語が転じ
たものである。
当神社の宝物中の「宮内額」に当郡宗社と
裏に大治末年作(八百四十三年前)とあり
て、世羅郡の郡司も代々当神社を当郡の宗
社として崇敬厚く郡民も又、これに習い尊
敬浅からざりし故に額面にこの文字がある
のである。
その後は、武門の崇敬最も厚く、一例を申
せば、明応九年(約四百七十一年前)下見
加賀の守、宮殿改築する。
また沼井築後守右衛門大夫毛利元祐、松平
従四位綱長公の諸氏、社殿の造営修復を行
ったと棟札の記録による。
斯の如く古くより地方開拓の恩人世良彦命
は地方の先祖であり氏神である。

毎月一日と十五日には、交通安全の起願を
致します。

−境内案内板(原文のまま)−



【 世良八幡神社 (世羅町) 】

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