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久多美神社
くたみじんじゃ
島根県松江市東忌部町3000−17−2  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 出雲國意宇郡 久多彌神社
旧村社

御祭神
大穴牟遅神 事代主神 味耜高彦根神 天御梶姫神

松江市街地から南西に延びる24号線近く。
千本貯水池を越えて、数百m進み、平口方面への小道へ左折。
山へ続く狭い道を500mほど行くと、平口公民館があり、
道を挟んで一つ燈籠がある。
その脇の細い道を登ると白くて新しい鳥居。
さらに森の中の参道を登ると木の鳥居があり境内がある。

以前、このあたりへ訪れた時、24号線を挟んで西の
西忌部にある忌部神社に参拝し、そこの由緒書きに
「久多美神社を合祀」と書かれていたので、
納得して帰ったのだが、後に「式内社調査報告」を読むと
「明治四十四年悲劇の合祀後、大正十二年平口部落民十五世帯は、
山林を拓き、残っていた社殿を地引し、奉斎した」
とあった。
悲劇の合祀が、いかなるものであったのか分からないが、
明治期の神社合祀の後、
住民の努力によって再興された神社だということを知った。

社伝によると、聖武天皇天平年間(729〜748)、
大国主命大穴牟遅神)を久多美山頂に祀ったという古社。
式内社・久多彌神社に比定されている神社。

合祀以前の祭神は、
大穴牟遅神、事代主神味耜高彦根神天御梶姫神の四柱だったが
現在は、大穴牟遅神(大国主命)の分霊を出雲大社から勧請し祀る。

ならば、勝手に納得などせずに、改めて参拝するべきだと思い、
今回の出雲行きを決めたのだ。

参拝してみると、木々の茂った参道や境内は自然に満ち、
社殿も立派な佇まいだったし、
参道から見上げた白い鳥居は逆光に眩しいほど。


平口公民館前の燈籠

鳥居

扁額

参道

鳥居

境内

本殿後方の木

本殿

本殿

 社博・『忌部村誌』に據ると、聖武天皇天平年間 (七二九−七四八)大國主命を久多美山頂に 祀る。嘉祥四年(八五一)正六位上(正徳五年〈一七一五〉社 方御給帳面指出。未検討)。弘安元年(一二七八)三月佐々木 三郎信清(「忌部総社神宮寺根元録」に「久多見判官之事云里見判官又黒目弾正誤伝、久多見山呼俗黒目山」)築城のため 山麓に遷座、後、佐々木雅清、千本部落に城門を構へ(城口・幟 立の地)、千本橋から一崎部落に通ずる路傍田圃中に石を立て、 山上から弓術の錬磨をしたといふ(的石・的石畷の名現存)。元弘二年(一 三三二)十二月玉造城主に攻められ落城したといふ。社殿 第二回目の遷座(前掲、延享三丙寅、祭典中興か)、正徳五年 (一七一五)神田下田貳畝九歩高貳斗五升三合を受け(社方 御給帳面指出参照)、享保十二年(一七二七)西忌部殿ケ市 の恵比須大明神(祭神事代主命)合祀。元文五年 (一七四○)四月忌部の總氏神(大宮神社が、「忌部總社忌部大宮」の尊号を尼子経久から許されたのは永正四年丁卯<一五〇七> である)である大宮神社(祭神天照大御神天兒屋根命太玉命) の末社となつた。寶暦十一年(一七六 一)二月神田高三斗四合を受け(社領御免地書出帳)、社殿 の造營・修覆・再建があつた。明治五年 村社、同四十四年の悲劇合祀後、大正十二年三月二十九日 舟木龍之介等平口部落民一五世帶は、山林一八○坪を拓 き、残つてゐた社殿を地引し、新たに大國主命の御分靈を 出雲大社から奉斎し、今日に至つた。戦國動乱の中の社運 だつたといへる。

−『式内社調査報告』−



【 久多美神社 】

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