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國府尾神社
こうのおじんじゃ
島根県隠岐郡隠岐の島町港町
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旧無格社 |
隠岐島後、西郷の城山頂上にある。
別名甲尾山(こうのおやま)という山で、中世の城山である。
麓の甲尾原も「國府ノ原」で、往古隠岐国府の所在地だった。
国府のあった山頂にあるということで、訪れてみた。
麓の道路から山頂まで、約500mの参道が続く。
階段上には開けた境内があり、木々は切られて明るい。
拝殿には、「八幡宮」の額があった。
島後十六社の一つらしい。
社伝によると、隠岐国守護佐々木氏の鎮守として
延喜三年、近江国山田荘の八幡宮の分霊を勧請したのが起源。
佐々木氏滅亡後は地域の氏神となり、
元国府尾八幡宮と称したが、明治初年に国府尾神社と改称した。
参道を登っていくと、数人の制服姿の人達とすれ違った。
近くの工事関係者か船舶関係者が参拝していたのだろう。
なかなか雰囲気のある参道だが、この季節、蜂が多くてまいる。
下の鳥居 | 参道 |
参道 | 上の鳥居 |
境内参道 |
社殿 | 社殿 |
拝殿扁額 國府尾神社 | 本殿 | 拝殿内部扁額 八幡宮 |
当社はもともと八尾川の河口に聳える城
山の丘陵上に築かれた守護の居城国府尾城
の鎮守社として造営されたもので、主郭に
至る南側の郭に鎮座している。神社として
の成立は鎌倉末期の延慶3年(1310)のこと
と推定され、中世を通じて村上氏がその神
主を務めた(当山代々系図など)。しかし、
当社が佐々木・山名・京極・隠岐・吉川な
どの歴代守護・戦国大名によって、それも
常に惣社の造営と合わせ、両社が一体的な
形で造営がなされていること、また文明7
年(1475)9月15日に守護代隠岐清綱が提出
した「当城八幡田」の寄進状が国造宛に出
されていて(億岐家文書)、惣社国造が国府
尾神社の祭祀をも兼ねていたと考えられる
ことなどから、単なる国府尾城の鎮守神で
はなく、国府関係寺社の一角を構成してい
たものと推定される。それは国府尾城が鎌
倉未・南北朝期以後における隠岐国支配の
要の位置を占める重要な城であったことと
も関わって、国府地域が守護・戦国大名に
よる隠岐国支配の拠点地域であったことに
よるものであろう。惣社国造が当社の祭祀
に関わっていたというのも、そうした文脈
の中で理解さるべきものと考えられる。
−『中世諸国一宮制の基礎的研究』− 祭礼7月26日 1日間 (隔年) 夏祭 9月15日 1日間 例大祭 |
【 国府尾神社 國府尾神社 】