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沼名前神社
ぬなくまじんじゃ
広島県福山市鞆町後地1225

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広島県福山市にある。
福島駅から南へ10Kmほど、鞆の浦を目指して南下。
海岸沿いの道から、鞆町後地の街中を入ったところに鎮座。
早朝の参拝だったので、朝日を受けた鳥衾形鳥居が鮮やかだった。
参道を歩き、階段を上ると境内。
正面に立派なコンクリートの社殿あり、右手が広場になっている。
参道から右手に入り、赤い鳥居の階段を上ると、
その広場の正面に出るが、その奥正面に渡守社。
仲哀天皇2年、神功皇后が高鞆を神璽として勅祭し、
大綿津見命を祀り、創建した神社。
もとは、鞆の西町に鎮座しており、渡守大明神と呼ばれていた。
現在、その渡守社は、当社境内の摂社となっている。
参道右の階段正面にある渡守社が、その旧社といわれている。
鞆の西町の社殿は、慶長4年の火災で焼失し、後地麻谷に遷座。
貞享2年、藩主水野氏により、草谷へ再建。
明治9年に、祇園社本殿へ遷された。
その祇園社は、もと鞆浦関町に鎮座していたが、
慶長4年の火災で、同様に焼失。その後草谷へ遷座。
当時は祇園社が、式内・沼名前神社であると考えられており、
明治4年に國幣小社に列せられたが、
式内・沼名前神社は、渡守社であるとされ、渡守社が祇園社本殿へ遷され、
祇園社は、相殿に祀られた。
祇園社にとっては、本殿を乗っ取られた形になってしまったが、
今でも「祇園さん」と呼ばれ崇敬されている。
神紋は、本家祇園・八坂神社と同じ、木瓜紋。
社殿からは、海を挟んで対岸の仙酔島が見える。
境内・境外に40社の摂末社があり、
鞆字古城跡に、御旅所があるらしい。
東向きに神社で、境内全体が、朝日を受けて輝いている。
社殿の右手に、力石がたくさん並んでいる。
社頭 ![]() | 鳥居 ![]() |
神門 ![]() | 神門から社殿 ![]() |
参道上に社殿 ![]() | 社殿 ![]() |
社殿横から |
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拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
天満宮 ![]() | 境内の力石 ![]() |
社殿から参道を見下ろす。仙酔島の山が見える |
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社殿の左手に、小さな天満宮があるが、
右手の広場にも境内社が並んでいる。
社殿の近くから順に、
大きな八幡宮、小さな3祠、大きな渡守社、小さな護国神社。
3つの祠は、多分、竈・松尾・厳島社だろう。
境内右手の広場。渡守社の境内だろうか |
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八幡宮 ![]() | 多分、竈・松尾・厳島社 ![]() |
渡守社 ![]() | 護国神社 ![]() |
神功皇后西国へ御下向の際、船をこの浦に寄せられた時、海中より尺余の霊石を得たので神璽として斎場を設け、大綿津見命を祀られ、海路の安全と戦勝を祈られたのが当社の創祀と伝える。もと渡守(わたす)の辻に鎮座したが、慶長四年(一五九九)火災により焼失し、福島正則が後地麻の谷に祇園社と並べて再建、承応二年(一六五三)福山城主水野勝俊夫人が本殿を修造、さらに貞享二年(一六八五)草の谷に社地を遷して社殿を新築した。当時は渡守大明神と称したが、明治九年、祇園社本殿へ大綿津見命を遷座し、祇園社の須佐之男命を相殿神とし、祇園社の社号を廃して沼名前神社と以降は専称する。当社は延喜式内社であり、明治四年、国幣小社に列格した。また、祇園社は須佐之男命を祭神とし、もと関町に鎮座したが、天長年中(八二四−三四)後地麻の谷へ遷座したと伝える。保元二年(一一五七)阿闍梨弁祐の勧請とする所伝もある。延慶三年(一三一〇)沙弥道昭(照)が本願となり再興、永享十年(一四三八)讃岐国白山の沙門心疑が霊夢を得て再興、福島正則の臣の奉行岡本伝之丞が舞殿を建立、寛永二年(一六二五)福山城主水野勝重が鳥居を建立する。天和二年(一六八二)、五間社入母屋造、向拝付の壮麗な本殿を従来の地より南の草の谷に造営、享保十一年(一七二六)本殿を一段高く引き移す。備後三祇園の一として古くから著名であったが、明治九年、境内社渡守社の祭神を本社内へ遷し、祇園社の号は廃された。昭和五十年、火災により社殿を焼失し、同五十五年に現社殿を再建した。なお、境内にある能舞台は、京都伏見城内にあったものを福山城主水野勝成が拝領し、万治年中(一六五八−六一)に当社に寄進したものであって、重要文化財に指定されている。
−『平成祭データ』− |
