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多家神社
たけじんじゃ
広島県安芸郡府中町宮の町3

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式内社 安藝國安藝郡 多家神社 名神大 |
広島県安芸郡府中町にある。
広島駅から東へ3Km進み、府中大橋を越えてすぐ左折。
北東方向へ1Kmほどのところ。
南へ入る脇道に境内入口があり、階段を登ると境内。
拝殿前には夏越の茅ノ輪が設置されていたので、
とりあえず2度くぐっておいた。
社名は、現在、「タケ」と読むが、
昔は、「オホイエ」と読んでいた。
総社神主・大呑氏との関連らしいが、
今は、「オホイエ」という訓は否定されている。
広島と高知には、似た伝承・地名がある。
当社は、古事記の神武東征の通過地である阿岐国多祁理の宮であるが、
土佐では、広島の安芸ではなく、高知の安芸で、
多祁理の宮は、土佐安芸郡の多気神社の辺りだという説もある。
多祁理の宮は、「日本書紀」では埃宮(えのみや)と記されており、
現在もその名が使用されている。
当社の鎮座地は、「誰曽廼森(たれそのもり)」と呼ばれ、
神武天皇が、当地の者に、「曽は誰そ」とお尋ねになったことによる。
平安以降、当社は歴史から消え、その所在が不明であった。
江戸時代には、当社の北500mにある総社と、
当社の南500mにある松崎八幡宮の間で論争が絶えず、
明治になって、両社を合わせ、多家神社を創建した。
境内には、広島城から移築した宝蔵があり、
広島県指定文化財になっている。
拝殿前には茅ノ輪が設置され、その正しいくぐり方が表記されている。
また、小さな茅ノ輪がたくさん台の上に置かれていたが、
自由に持ち帰っても良かったのだろうか。
社殿では、何かの祈祷中だったので、話を伺うことができなかった。
境内入口 ![]() | 境内 ![]() |
拝殿 |
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本殿 ![]() | 中門 ![]() |
県重要文化財・宝蔵 |
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境内社貴船社 ![]() | 扁額 ![]() | 拝殿前の茅ノ輪 ![]() |
−境内案内− |
当社の北、川沿いの道を500m歩いた所にある総社会館が、
総社古社地(広島県安芸郡府中町本町3−1)。
入口に案内があり、石碑が立っている。
総社会館 ![]() | 総社跡石碑 ![]() |
総社跡
総社は、国司が国内の神社を巡拝するかわりに国中の
神霊をまつっていた神社である。府中の総社は、在庁官人となった田所氏が安芸国で力 を得て平安時代終わりごろ建てられたものと思われ、鎌 倉時代初めの資料には惣社の名が記されている。また田 所文書によれば、温品村・佐西郡(佐伯郡)・三田小越 村など6町余りの免田が認められていた。 江戸時代には府中北部の氏神社として、春の卯花祭や 秋祭りの流鏑馬などでにぎわった。しかし『延喜式』に 記された多家神の所在をめぐって南部の八幡社と争いが 絶えず、明治7年(1874)に創建された多家神社に合祀 された。 −総社会館案内− |
当社の社前の道を南へ500m進むと、東への上り坂の上に、
松崎八幡宮跡(広島県安芸郡府中町宮の町5)がある。
府中中学校の横、階段上が整地された神社跡で、
境内には神武天皇御腰掛岩が残っている。
松崎八幡宮跡 ![]() | 松崎八幡宮跡 ![]() | 松崎八幡宮跡石碑 ![]() |
神武天皇御腰掛岩 | |
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松崎八幡宮跡
松崎八幡宮は、京都の岩清水八幡宮の別宮として源頼
朝の下文にみえている。鎌倉時代中ごろには、国衙領内で年貢を納めなくても よい免田が20町余りあり、戦国末期の毛利氏の検地では 100石余りの社領が認められていた。また、別当寺として 玉勝院・神前坊・神力院・法寿坊・行専坊の五か寺が属 していたと伝えられるなど、中世を通じて栄えた神社で ある。 江戸時代には、境内のたけい社を『延喜式』に記され た多家神であると主張して総社との争いが絶えず、明治 7年(1874)、現在の多家神社に合祀された。 −境内案内− |
